眉間に皺が出来てから、かれこれ数十分。こちらをちらとも見ようとしない奇麗な色の目が一心に注がれる分厚い専門書へ嫉妬する気にもならず、伏し目がちなその顔を見詰めて、同じく数十分が経過した。眉間の皺は癖になるらしいが、あれはどう見ても癖なんてレベルでは済まないくらいの、気合いの入った見事な縦線である。楊枝が何本挟めるやら、と詮無い事を考える志摩の手元の薬学書は時間が経っても同じ頁を開いたままだ。

 人気の少ない塾の教室、黒板に書かれた自習の文字。代理としてやって来た雪男は特に授業までを任された訳ではなく、自習の間の質疑応答に対応出来るように、と派遣されてきたらしい。彼自身が受け持つ薬学の授業とは打って変わって、教室へ遣って来て自習になった事を告げ、勝呂の室外で自習する事は可能かと問う声に許可をしてからすっかり教壇の脇にある椅子へと腰を落ち着けてしまった。燐としえみは図書館へ行くと連れ立ち、しえみに誘われた出雲も億劫そうにしながらも共に教室を出て行った。勝呂と子猫丸は前の授業での質問をしに教師の元へと向った。宝は、気がついたら教室に居なかった。

 二人きりの教室に響くのは微かな紙ずれの音だけだ。眉間に皺があっても不思議と威圧感は無いのは顔立ちが未だ幼さを多分に残しているからだろうか。兄の無邪気さを見る度に、弟の気苦労が増えているのは端で見ていても気の毒なくらいで、それを上手に隠しているつもりだろうが気付いてしまうのは志摩の目敏さと同じ兄に苦労させられる弟の境遇を知っているから、かもしれない。志摩の場合は兄は一人どころではなく、主に面倒なのはそのうちの一人だけなのだけれど。

 何にせよ。眉間に皺が浮かんでいるのはあまり宜しく無いのではなかろうか。それこそ、癖になってしまったら台無しである。

「若せんせ。ちょっと分からない所があるんですけどええですか」
「構いませんよ。 何でしょう」

 椅子を引いて立ち上がりながら掛けた声に、漸く海の様な青い目がこちらを向いた。表情を意識的に作っているのか、眉間の皺は薄くはなったが消えていない。読み止しの薬学書を手に教壇の傍へと歩み寄ると、手にした本で分からない行でもあったのかと雪男の視線がすいと手元へ落ちた。その目元へ、本を持たない方の手を伸ばし眼鏡の蔓へ指を掛け引き抜く。流石というべきか、目元へ手が伸びて来ても雪男は目を瞑る事をしなかったけれど、物言いた気な視線がじ、とこちらを見上げて来る。レンズを通さない視界はきっと滲んでいるのだろう。瞬きが増えて、焦点を絞る様に眦が細くなった。

「眼鏡と質問に何か関係でもあるんですか」
「ないですねぇ。 …… 俺の顔、見えてはります ?」
「外したすぐ後なので、」

 あまり。律儀に言葉を続けようと動いた唇を塞ぐように己のそれを重ねる。唇が触れた瞬間、滅多な事では動じないその両肩がびくんと揺れた。ちゅ、と啄む様な可愛らしい音を立てて離れる。ちらりと眉間を見遣ってみれば、驚いた拍子にか眉間の皺はすっかり消えていた。ほんの数秒だけの口付けで、思った以上の反応があって思わず至近距離から覗き込む志摩を睨む様に雪男の双眸が鋭くなる。見えていないだけかもしれない。

「見えないほうが感覚が冴えるってよぉ聞きますけど、どないでしたか」
「…… 真面目な顔をしたと思ったら。くだらない質問ですね」
「はは、」

 喉を鳴らして笑って、雪男の座る椅子の背凭れに手をかけ、ぐ、と上半身を屈める。溜め息でも吐きたそうな下唇を浅く舐め、さっきよりも深く唇を重ねると首裏に手が回され引き寄せられた。

 頸動脈を圧迫する見事な絞め技が決まるまで、あと数秒後。

触れて覚えて

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