鳥の囀る音に、板張りの道場で一人日課である鍛錬をしていた幸村は開け放した扉の向こうの景色を一瞥したが、目の良い幸村でも鳥の姿はどこにも見つける事が出来ない。額から頬から、頭から水をかぶった様に流れて落ちる汗の雫を掌でぐいぐいと拭いながら道場を出て脱ぎ散らかしていた草履に爪先をひっかけ、砂利を鳴らしながら母屋へ足を運ぶ。途中ですれ違った女中に汗を拭きませぬと風邪を召されます!と母親めいた笑みと一緒に手拭を渡され、物心ついたころから屋敷に勤めている女中頭には緩みかけていた髪紐を結い直してもらった。随分と大きくなられましたね、と懐かしそうに目を細める皺だらけの顔へ礼と共に一つだけ頼みごとをしてまた歩き出す。

歩くそばから誰かしらと顔を合わせ、挨拶を交わしながらやってきたのは自室であり、障子に手をかけ開くと見慣れた調度品が今朝と同じように並んでいるばかりで特に代わり映えは無い。敷居を跨いで中へ踏み込み、畳の感触を踏みしめながら後ろを振り返ればまだ日は高く 障子に張られた和紙が日の光を柔らかに透かして畳の上を満遍なく照らしている。少しだけ首を傾げた幸村は、ふと目に留まった鴨居の上の薙刀へ手を伸ばすと手馴れた風に一振りして重さを確かめてから裂帛の声も予備動作も無く、おもむろに天井を突いた。ガツッと木の裂ける音と同時に、磨かれた鋼が半分ほどまで天井板を突き通しめり込んだ途端パラパラと細かな埃が振り落ち咄嗟に目蓋を閉じてもすでに遅くごろごろとした異物感に目蓋を瞬かせながら後ろを振り返れば、いつの間に現れたのか佐助が畳み一畳分だけ距離を置いて畏まった様に膝を突いていた。

「さすけ、」

名を呼ばれた忍はしかし答えは返さず、ちらりと天井に突き刺さったままぶらぶらと揺れている薙刀を見て片目を細めて苦く笑った。

「旦那、あんまり才蔵を苛めないであげてくんない?」

才蔵であったか、と小さく呟いた幸村は、擦っていた右目から手を離し、なんとか両目を開くと天井へ、天井裏に潜んでいるであろう己の忍へと謝罪の言葉を投げた。応えは無いが一瞬だけ零れた気配が笑っているようだったので安心した風に息を吐き突き刺さったままの薙刀を引き抜いて元の通り鴨居の上へと収めていれば左目の端で佐助が指先だけで手招きしていたので呼ばれるまま膝を折り胡坐をかく。手甲を外した白い手が、擦りすぎて赤くなった幸村の下目蓋をそっと撫でたその感触に思わず目蓋を閉じてしまうがすかさず指先でトントンと目蓋を軽く叩かれる。

「埃が入ったんでしょ?見てあげるから我慢して」

言葉の通り、瞬きしてしまいそうになるのをぐっと堪えて目蓋を持ち上げると、思ったよりも近くに佐助の顔があり思わず目が泳ぐ。下目蓋を指で押し下げて塵が無いか探す佐助の目の色は、髪の色と同じく赤茶けていて透けている。普段滅多に見れない目の色に、視線が絡まぬのをいいことにまじまじと見詰めていると下を向いていた黒目がぐるんと上を向いて目が合った。驚いて息を呑む幸村とは対照的に、猫のように目を細めてにやあと笑った佐助は下目蓋を押し下げたまま長い舌を覗かせると、そのまま眼球をべろりと舐めた。

「ぎゃっ!」
「ハイ、取れたよー」

後ろへ仰け反る様にしながら頭を揺らして逃げる幸村を追いかけず好きにさせぱっと手を離した佐助は舌の先を指で拭い舐め取った塵を弾き捨てる。何事も無かったように飄々としている佐助に、些かむっとしながら崩れた体制を戻すとそれを見計らったように佐助が懐へ手を差し込んで書状を一通捧げ持つように差し出してきた。

「竜の旦那から、きっちり預かって参りました」
「うむ。大儀であった」

受け取り、労いの言葉を律儀にかけてから早速中身を確認する幸村を改めてまじまじ頭の天辺から足元まで順繰りに眺めた佐助は、短く吊った眉をついと顰めて旦那、と声をかけた。書状から目を上げずに返事をする幸村に、さらに眉間に皺を寄せてもう一度旦那、と呼べばようやく顔を上げて佐助と目を合わせる。きょとんとしたその顔に思わず溜息を零しながら、幸村の首にかけられた手拭を引き抜いて膝の上で一度きちんと折り畳むと汗の玉が未だに浮く主の額を丁寧に拭い取る。

「渡されたそのときに使ってよね。風邪引いたらどーすんの」
「大丈夫だ」

言っとくけど看病しませんからね、と釘をさすと、最初からそのつもりだったのか言葉に詰まったように幸村は黙り込んだ。その姿に思わず溜息を吐き出せば、廊下を歩く人の気配に佐助の視線が障子へと流れる。ほどなく廊下から、先ほどご所望された冷やし飴をお持ちしました、と女中頭の声が届くと嬉しげに幸村が立ち上がろうとするのを制して、佐助が障子を開き盆ごと受け取った。盆の上には湯飲みが二つ、冷えて表面には水の粒が浮いているのを見下ろしてから佐助がまず先に主へと湯飲みを手渡す。それを受け取り一口飲んで、幸村は幸せそうに破顔して佐助も飲め、と薦めて来る。

「疲れたときは甘いものがよいそうだ」

誰から聞いたの、と首を傾げる佐助に笑いながら、幸村は冷やし飴をちびちびと舐めて、甘いな、と今更のように呟いた。

冷やし飴

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