久方ぶりに佐助と手合わせをしようと忍び屋敷へ自ら足を運んでみたが、宛てがわれた部屋に佐助の姿は無く、いつもそこここで窺える忍の姿も無い。幾人かは数日前に任務を任せ上田を発ったと記憶しているが、他の者は領地内での待機となっていた筈であるのに耳鳴りがしそうなくらいに静まり返った屋敷は無人である事を示す様に人の気配が薄く物音一つなかった。常ならば屋敷へ上がる前に誰かしら幸村に気付いて出迎えてくるのが習慣としてしみついてしまったのか、奇妙な違和感に幸村は腕を組んで溜息を吐く。一体皆はどこへ消えたのか。季節はすっかり秋めいて、吹く風には水の匂いが強く残っている。雨でも降るのだろうか。喉元を冷やす風に、亀のような動きで首を竦めた幸村が途方に暮れていると、鳥の羽ばたく音が間近で響き、一枚の黒い羽が足下へひらひらと舞い落ちて来た。薄灰色から羽先へゆくに従って濃くなるその羽を拾おうと屈んで手を伸ばすが、指が羽へ触れる前に横からのびて来た別の手にさらわれてしまう。

「鴉の羽に触れてはなりませんよぅ。家へ火気を招いてしまいますからね」

顔を上げると、いつからそこに居たのか、庭から身を乗り出す様に濡れ縁へ手をついている女の目が細められた。石竹色の小袖から覗く皮膚は雪の様に白く、唇と目の際の鮮やかな紅色が弧をかいて幸村を見上げている。器量の良い町娘のようだが、これでもれっきとした真田忍びの一人である。名を千代といい、佐助と同郷の出で幼い頃から幸村の面倒を影から見ていた者だ。手の中の羽を口元へ押し当てながら、月日が流れても記憶の中での朧げな面差しと寸分変わる事の無い姿のまま、笑みに歪んだ唇がほろりと緩むのを惚けた様に見詰めていた幸村は、ますます笑みが深くなるのにはっとしたように数度瞬いてから右の耳朶を手の平で隠した。そこだけ別の物にでもなった様に熱い。

「……、手合わせの相手を捜しておるのだが、佐助を見掛けなかったか」
「あァ、佐助でしたら伊三や晴海と一緒に裏山へ行きましたよ」
「裏山?」
「はいな」

真田忍びの為に与えられた山は忍び以外の立ち入りを禁じられている。毒草の栽培や罠の考案、新種の火薬の実験等々、至る所にそうとは分からぬよう偽装されてはいるが、危険な事に変わりはない。例えば他国の密偵が潜り込んだとしても駆逐できるような仕掛けも施されているのだ、山そのものが城塞に近く、いくら主と言えど山中の立ち入る事が出来る場所はごくごく限られていた。それは代々の長自らが取り決める約定の中でも常に変わる事無く上位へ位置づけられており、幸村に至っては未だに足を踏み入れた事は一度も無い。さてどうしたものか、と黙り込んだ幸村を見兼ねたのか、千代が指笛を吹いて先ほどの鴉を手元へ呼び寄せる。忙しなく羽ばたきながら、空へ伸ばされた細い腕に止まった鴉の足へ片手で器用に紅色の括り紐を結びつけると、件の山へすいと指を指し示す。たったそれだけで、鴉は腕を離れまっすぐに飛び立った。

「じきに山から下りてきましょう。それまでお茶でも如何ですか?」



濡れ縁に二人並んで座り、千代の諸国へ密偵として足を運んだ時の話に相槌を打ちながら茶をすすっていた幸村は、屋敷の裏手から人の気配と声が徐々に近付いてくるのに気付いて湯のみを置いた。その隣でしゃんと座っていた千代は、頭を一度垂れてから声の主がやってくる前にすいと立ち上がって屋敷の奥へと消えた。先ほどよりもはっきり聞こえる声は怒気を孕んで空気を震わせていたが、幸村の座る濡れ縁が視界に入った途端にぴたりと消えて後ろめたそうな顔をした伊三と晴海がひょっこりと顔を出す。二人揃って全身を泥で汚し、顔には擦り傷が幾つも出来ていた。目立った傷はそれぐらいだが、何故か伊三の口元にべったりと乾いた血がこびりついている。地へ膝をついて挨拶しようとするのを手で制した幸村へ、目礼を返してから二人揃って口を開いた。

「晴海、参じました」
「伊三、参じました」
「……お前が怪我をするとは珍しいな」
「いえ、怪我をしたといいますか」
「どちらかといえば、させた方なのです」
「誰が、誰をだ?」
「伊三が俺様に、だよ」

割り込んだ声は頭上から降って来た。顔を上げれば大鴉の足に掴まった佐助が、枯れ葉が落ちる様にふわりと庭へと降り立つ。双子と違い泥で汚れては居ないが、何故か鎖骨から顎の下までを白い布で覆っている。所々にうっすらと血が染みて斑模様になっているが、出血はさほど酷いものではないらしく、動きは常と変わらず軽妙であった。

「佐助、ただいま戻りました。悪いね旦那、お待たせしたようで」
「いや、それは構わんが…怪我の具合はどうだ。ちゃんと処置をしたのか?」
「ま、そのへんはぬかりなく。首に接吻されたようなもんですから」
「ほう。ならばもういっぺん喉笛に喰い付いてやろうか」
「勘弁してよ!きもちわるいなあ」
「そうだぞ伊三、佐助はどう見ても薄くて固くて不味そうだ」
「そもそもお前の所為でこうなったんですけどー?」
「やかましいねェ」

軽口を叩き合う三人を止めようと動く前に、後ろから千代の声が通る。声量はそれほど大きくないのに不思議と耳によく届く声にはありありと呆れた色が滲んでいた。肩越しに振り返ると声だけでなく顔にも馬鹿じゃないのと言わんばかりに眉が寄っていたが、見上げる幸村の視線に気付くと途端に皺が消えて花開くような笑みが代わりに浮かんだ。ただし目は笑っていない。

「幸村様はあんたとの手合わせをご所望だよ。随分お待たせしたんだ、血止めしてからこってりのさなこの馬鹿ッたれ。伊三と晴海は水浴びといで、火薬くさいったらないよぅ」

怒気の無い一喝でだんまりを決め込んだ三人を順繰りに一瞥してから膝を折り、抱えてきた漆塗りの薬箱を開こうとする千代の手の上に幸村の手が重なった。押し止めるような動きに、普段通りの眠たげな顔で幸村を見遣った千代は、意図を察せず困った様に首を傾げる。あからさまに態度の違う千代に、佐助が嫌そうな顔でそれを黙って見ていれば、くるりと幸村が振り返って佐助を見る。澱みのない目は佐助の顔ではなくその少し下、おそらくは布に覆われた首元を注視しているようで、意識した途端首の裏がむずむずとこそばい。結局佐助に向かって発する言葉は無く、再び幸村の視線は千代へと逸れた。

「今日は手合わせせずとも構わぬ。某が傷の手当をする故、桶に水を入れて佐助の部屋まで持って来てはくれぬか」
「幸村様が、それでよろしいのならば。畏まりましてございます」

では、と一礼して再び屋敷の水場へ向かった千代を見送ると、薬箱を抱えた幸村は未だ庭先へ立ったままの佐助の手を取るとぐいぐいと引っ張って濡れ縁へと引きずり上げる。半ば無理矢理引きずられた佐助は、肩が動くたびによじれる皮膚の痛みにいたたと呻きながらされるがまま、訳も分からず手を引かれ歩き出した。

噛み痕

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