「そもそも何故首なのだ」

最初は引き摺らんばかりに力任せに引かれていたが、途中からは歩調を合わせて一歩後ろを大人しくついて歩いた佐助は、自分の部屋へ戻るなり幸村に問いかけられて吐き出しかけていた溜息をそのまま飲み込んだ。まったく息をつく暇すら有りはしない。閉め切った障子の向こうは夕暮れに赤く染まって、繊維の浮き立つ障子紙を透かして差し込む光は弱く、手元が覚束無かろうと火打石を取り出そうとした佐助を幸村は要らぬ、と渋面を作りながら手を止めさせた。その代わりに、もう一度だけ同じ言葉を繰り返す。何故首に傷を負うような事になったのだ、という幸村の顔は不機嫌そのものだ。

「新しく仕入れた火薬の調合を間違えて、晴海が毒草の植わった一角を燃やしたんだよ。その中に幻覚作用の強いのが混ざってたらしくてさ、」

ようやく説明を始めた佐助の声を聞きながら、その向かいに腰を下ろした幸村は薬箱を開きながらとんとんと己の首を指先で二度叩いてみせた。それを見て、佐助は自らの首を覆う白い晒しの結び目を解いて緩めながら話を続けた。視界の端で、幸村の指が先に用意されていた水の張られた桶と手拭を手元へ引き寄せている。

「風下にいた伊三がまともにその煙を吸い込んでね。って言ってもすぐに火を消したし、解毒丸もあったから、晴海と一緒に押さえつけて服用させようとしたら暴れちゃって。で、この有様」

するすると衣擦れの音を立てながら晒しを引き抜くと首筋がひんやりと冷たい。止血はしたが未だ滲み出ているのか、内側に巻かれていた晒しは湿った血で赤く染まっているのが薄暗い部屋の中でぼんやりと浮かぶ。日が落ちるのが早くなったな、と意識が別の事を考え始めたがすぐに痛みで引き戻された。ぼんやりしている内にぐるりと視界が回って、障子が上下逆さまになり、真っ正面には天井と、馬乗りになって顔を覗き込む様に前に屈んだ幸村の顔。

「……旦那?」
「気付いていないのか」

佐助が足を動かそうとすると両の太腿の上に幸村が腰を下ろしたおかげで、肘をついて上肢を起こす事しか出来ず、佐助はどういうこと、と幸村を見上げる。血止めの軟膏をひとさし指で掬い取った幸村は、空いた手で佐助の尖った顎を掴むと横を向かせそのまま動けぬ様に固定した。されるがまま、横目で見上げてくる佐助に、幸村はますます眉間の皺を深くする。

「お前、真直ぐ歩けていなかったぞ。毒煙を吸った所為じゃないのか」
「ええ?」
「いつもならばこれほど簡単に転がされはしないだろうが」

不服そうに佐助の唇が尖る。しかしそれもすぐに引き結ばれてしまった。顔を横向けていると浮き出る首の筋を挟む様に、上下に乱杭歯の痕が赤黒く皮膚を裂いているその上から幸村が軟膏を擦込んだ所為だ。点々と歯の形に窪んだ傷の上を、まるで押し開く様に指で触れる。爪を立てない様に気を使いながら、それとは真逆に、戦の最中でも血を流さない箇所をいとも簡単に噛み裂かれた事に対する苛立が収まるまで幸村は執拗に指で押しなぞっていた。噛み痕が消えるまで、佐助の首から鬱血の痕が消える事は無かった。

噛み痕のあと

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