弁丸が部屋に居ない。自室にこもって遊ぶような子供ではないけれど、いつもならば書き取りの練習に悪戦苦闘し墨を至る所に飛ばし汚し、そろそろ逃げ出したくてそわそわしている時間だというのに、部屋はおろか庭や勝手所にも姿が見えず、佐助は日に焼けた茜色の髪をわしわしとかき混ぜた。思いつく場所は全て見て回ったし、丁度見頃だと話にあがっていたから紅葉狩りにでも行ったのかもしれないが、それにしたって護衛を任せた忍から一報あってしかるべきだろう。土産は団子がいいと強請っていたからわざわざ遠回りをして弁丸気に入りの茶店で買ってきたというのに、言い出した本人が居なければ団子の行き場もない。常ならば己も中心近くにいる輪から今は完全に離れているな、と思う。だからといって拗ねたり僻んだりはしないが詰まらない。ぴかぴかと日光をやわらかく反射する板敷きの廊下を歩きながら、さて次はどこを探そうかと思っていれば、庭の牡丹の植え込みの下を一心に覗き込んでいるちいさな背中が目に入った。

「千代?」
「おや、佐助かい。おかえり」

呼び掛ければ返事はするものの、臑を地面にぴったりとくっつけて背中が丸くたわんで小さく縮こまった身体はこちらを向かない。何をそんなに見ているのだろうと、その場に足を留めたまま眺めていればいつまでも動かない気配に促されたか、千代と呼ばれた女が顔を上げた。目尻の縁に彫った紅が牡丹の葉の緑の中でひときわ鮮やかに映える小さな顔が、ねむたがる子供のようなぼんやりとした表情を浮かべている。見上げるような格好となった漱は、目敏く佐助の持つ団子の包みを見て察しをつけたらしく、ぱちぱちと長い睫を揺らしてからぐっと伸びをする猫のように身体も起こして地面の上に正座した。畏まったのではなく元々足を折って座っていただけだが、それだけで妙にしゃんとしてみえる。

「真田の若様なら、十蔵と一緒に忍び屋敷のほうへ行かれたみたいだよ」
「十蔵と?」
「おかしな組み合わせだよねえ。滅多に見れやしないから、よぉく覚えているよ」

あの凶相を見て怖がらない子供なんて真田の若様ぐらいなもんなのに、あいつときたら未だに泣かれるんじゃないかッて肝を冷やしているんだから仕方がない奴だよねえ。うふふと笑いながらそう言う千代の顔は、出来の悪い弟を可愛がる姉のように楽しげであったが、佐助の視線が忍び屋敷のある方角へ僅かに反れるのを見ると、これで役目は終わったと言わんばかりに再び地面へへばりついた。切り揃えられた黒髪の合間から覗く白い頸は、佐助のことを忘れてしまったように動こうとしない。

「若様?さて、ここらでは見掛けていないな。鍛錬場ではないのか?」
「若様だったらさっき十蔵がかついで運んでいたぞなんだお前お役御免にでもなったかご愁傷様だ、ッ痛ぇな猿!文句あんなら勝負しやがれ!」
「あぁ、二人ならほら、丁度楓が赤く色を付け始めたのだと仰っていたから山寺にでも行ったんじゃ無いか」

すれ違った同職の男たちはてんでばらばらにあちらで見掛けただのこちらで見掛けただのと好き放題に言ってくれたものだから、最後に捕まえた才蔵の指し示した裏庭へ辿り着く頃には空に茜色が混ざり始めていた。いささかげんなりしながらも音をたてず、身軽に駆けて向かえば、件の十蔵が肩に弁丸を乗せてしきりにうろうろしているのに出会した。肩車されている幸村は必死に腕を伸ばして何かを掴もうとしているが、ちいさな指は空をかくばかり。実でもなっているのかと目を凝らしてみても、赤や黄色に染まった葉が茂るだけで熟れた実なぞひとつもなかった。もう少し右だ、すまぬが前に一歩、いや行き過ぎだ戻ってくれ、と、小さな君主にいちいち声をかけられ熊のような忍の男が右往左往する姿は普段の戦場での暴れぶりからは想像もできないほどに微笑ましいと言えない事も無い。全く何をやっているんだか、と呆れ半分に溜息を吐きながらちょろちょろと動く背中を見ていると、ついに諦めたのか弁丸が伸ばしていた腕を下ろして十蔵の頭へ猫の子が丸まる様にしがみついた。

「それがしの知る中でいっとう大きな十蔵に頼んでも届かぬならば、もう諦めるしかなかろうな」
「枝ごと、落としましょうか」
「ならぬ。それでは木が可哀想ではないか」
「気が利きませなんだ。申し訳御座居ませぬ」
「気にするな。しかし、佐助が戻ってくるまでに取れればよかったのだが…。これほど奇麗な葉は、珍しいのに」
「先ほども、仰られておりましたな」
「うむ。佐助の髪の色と同じ、秋の色だ。見せてやりたかった」

声を掛ける隙を窺っていれば耳に届いた2人の会話に、結局佐助は声を掛ける事なく踵を返した。こんな時間まで外で遊んでいると身体が冷える、手習いはきちんと終わらせたのか、出かけるときは家人へ一言残してからにしろ、等々説教する事は山とあったが、今すぐでなくとも構わないだろう。特に気配を消していた訳でもないから、十蔵は気付いてきっと弁丸を連れて屋敷へ戻ってくる筈だと当りをつけた。2人が手足を冷やして戻ってくるまでに団子と熱いお茶を用意しておかなければならない。

秋焦れる

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