じりじりと痺れるような足裏の痛みに眉一つ動かさず、薄っぺらな雪駄を裸足に引っ掛け、起き抜けの格好に地味な鉄紺色の羽織を上に重ねた政宗は眩しそうに目を細めて目の前の大木を見上げた。季節はすっかり春めいて、足下ではまだ柔らかな色の野草や小さな花が芽吹き、頭上を覆う様に伸びた枝には上等の紅に漉いたばかりの紙を重ねたような淡い色の花が咲きこぼれている。既に盛りも過ぎたか、風が吹き抜ける度に枝が揺れ、そして花びらが頼りなく舞う。散歩にと抜け出した先で偶然見付けた山桜を眺める隻眼は、瞬きも少なに音も無く揺れる枝を見詰めたまま動かない。常に眼帯で覆った右目も今は桜を浚う風に晒され、伸びた前髪が頼りなく引き攣れた傷跡を覆っていた。山裾を抜ける風が一際強く枝や羽織の裾を揺らして、雪の様にはらはらと視界を花びらが遮ると、それまで微動だにしなかった視線が一度目蓋の下に隠れ、次に桜を見上げる時には研磨した鋼のように青青とした鋭さが浮かんで、そして消えた。

「火ィ寄越せ」
「そもそも煙草なんて持ってないでしょーに」

 大烏の羽ばたきで揺れていた太い枝の上には、膝を折る様に小さく座り込んだ佐助が見下ろす様に顎を引いて笑っていた。日向の猫のような顔で欠伸をする佐助を嫌そうに見上げた政宗は、使えねェ奴、とこれ見よがしに舌打ちしながらも煙草は諦めたようだった。節の目立つ固い指腹で下唇を弄っていれば視野を横切る様に投げられた固まりに、きりと双眸を細め、一つ目で見据える様にしながら右腕を振るって弾く。柔らかな布越しにごつごつとした固い感触が腕に残るのを振り払う様に揺らし、ばさりと葉擦れの音と共に足下へと落ちた枝へ手を伸ばし拾い上げてみれば、今目の前にある桜とは別の八重桜だった。払い落とされ、幾らか花は落ちているが未だ観賞するに不足無い程、濃い紅色の花を一瞥した政宗の薄い唇の隙間から厭きれたような溜め息が吐き出される。

「梅折らぬ馬鹿に桜折る馬鹿か。どっちにしろ猿以下だな、無粋な奴」

 足音もなく、花びらが土の上に落ちるような柔らかい動きで枝から飛び降りた佐助は相変わらず猫の様に口角を釣り上げていたが、しかし億劫そうなのがありありと滲んだ所作で赤みの強い髪を手の平で掻き混ぜ、桜の幹に背中を預けたまま上目に政宗を見遣った。常の癖の様に左目へ絞った焦点が、前髪の下の剥き出しの皮膚へと逸れて、そして眼帯が無い事へは何も言わぬまま手に握られた枝へと視線が滑り落ちる。

「人目もつかないような場所で朽ちた老木が、なんの気紛れか一枝だけ花をつけてたもんで、ついね」
「手折ってきたって?」
「花盗人は風流。なんでしょ、確かサ」
「なら今此処で手前を桜の木に縛り付けなきゃならねェなあ」

 俺が桜の持ち主だったらそのまま首刎ねてるぜ、と、薄ら寒い事を平然と言いながらも、手折られた八重桜を手の内でくるりと揺らす政宗は不機嫌とは程遠い様だった。花の咲き具合を見聞する様に細められた左の目尻を見詰めた佐助が、降り落ちる花弁の合間を縫う様にぬう、と腕を伸ばす。手甲のない剥き出しの手が、鼻先まで伸びた濡れ羽色の髪に触れる寸で、唸るような風音を立てて八重桜の枝先が佐助の喉元へと突きつけられた。柔らかいとはいえ、突き立てられれば生木は薄皮位なら容易く引き裂くだろう。鋭敏な忍びの嗅覚が、近くなった事で仄かな桜の香りを嗅ぎ取って喉元を反らす様に顎が持ち上がると、中途半端に伸ばされた腕から力が抜けた。だらりと身体の横へ戻った腕を詰まらなそうに眺めた政宗が短く息を吐き、剣舞のような大仰な仕草でりんと伸ばした枝を、まるで刀についた血を振り払うように一振りして肩へと担ぎ直す。

「勝手に抜け出したから片倉の旦那と山犬がうろうろしてて旦那まで落ち着きなくなってるから、さっさと戻ってよ」
「真田が落ち着いてねェのは今に限った事じゃねェだろが」
「ま、そうなんだけど」

 お土産にそれあげるから、と顎をしゃくる様に肩に担がれた枝を示した佐助の目が、幾つもの花弁をまとわりつかせた濡れ羽色の髪をじ、と見詰めて、そして伏せられる。そのまま、ひらひらと指先をしならせる様に手を振ると、花霞を巻上げるような突風と鳥の鳴き声を残してその姿が掻き消えた。空へと向う風の流れに引き上げられた花弁がふわりと舞い落ち飛ばされる中で頭上を見上げた政宗の目には、空高く旋回する鳶の小さな影しか見付ける事は出来なかった。羽根一つ残さずに消えた大烏の声に次いで、鼓膜へ届いたのは遠くで政宗の名を呼ぶ小十郎の声だった。

花であれば届く距離

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