真田幸村の顔色の悪さに気付いてはいたものの、それを気に掛け労るには時間と情報が足りておらず、疲弊の滲むうす青い顔色から目を反らしもせずに孫市は話の行き先に思いを馳せた。夜明けを待って仕掛ける、と言ったのは総大将である石田三成である。となれば、明けぬ内に事前の遣り取りは済ませておきたい。雑賀衆が雑賀衆として存分にその力を振るうにも時間は必要だ。

 部下が戻りましたら追って情報をお話致します故、と言って礼儀正しく辞去の挨拶を口にした幸村は、武田の陣幕が張り巡らせた一角へと踵を返した。薄膜で包み切れていない多感さがこの先の戦で摩耗してしまわなければいい。師と仰いでいた信玄が病床についているという現状の中、一軍を指揮する立場となった若き後継の心情を思えば哀れむ様な気持ちが込み上げて来る。胸の内を占めていた大きな存在の喪失。唇がかすかに、自重的な色を含んで笑みに歪んだ。何を感傷的な、と、瞬き一つで笑みを消し去った孫市の耳に、鳥の羽搏く音が届く。宵も過ぎて薄闇ばかりが広がるというのにだ。意識せず、太腿に固定した銃へと手が伸びる。

「お前の雇い主は、夜駆けする鳥を心底信用しているのだな」
「ま、長い付き合いですから」

 木々の張り巡らせた枝の隙間を縫う様に、音も無く地に降り立った忍びの姿に驚きもせず、孫市は銃把から手を離した。墨一色の忍び衣装とは打って変わって、剥き出しの赤毛が松明の光の下で鮮やかに映える。目の前の忍びの様相は、口布で鼻から下が覆い隠されているので目元しか窺えなかった。猫の様な双眸は草の者にしては随分と人懐こそうに孫市を見詰めているが、猫の様に可愛らしいものではない。口を開けば首を噛み千切る鋭い牙がある。草の人間を軽んじる武将は数知れずにいるが、存在理由こそ雑賀衆と似た様な彼らの存在を疎ましい、と思った事はない。実力あるものを卑下する事程、愚かな事は無いと孫市は考える。慢心は目を塞ぐものだ。砦の見取り図と、陣営の位置に印のついた簡易地図を疑いも無く受け取る孫市に、寧ろ佐助の方が少々毒気を抜かれた様だった。面白がる様に片眉を吊り上げて、孫市を見返すその目の雄弁さに肩を竦める。

「真田幸村個人への信頼は無いが、武将としての真田幸村は信用している。……半分程な」

 あいつが信じる部下ならば、我らもそれを疑う事はしない。詰まらない話に相槌でもする様な素っ気なさで、受け取った見取り図を開く孫市に、手甲のついた手で器用に口布をずらした佐助が、目を細めて愛想良く笑う。口端が持ち上がって、本当に猫の様だった。

「雑賀の頭領にそう言ってもらえるなんて、恐悦の極み。ってやつだなぁ。ま、明日はお互い宜敷く頼みますよ」

 気安い口調で喋った後、ふと黙り込んだ佐助は二度、三度と立て続けにくしゃみをした。濡れた布を叩き付けた様なひしゃげた声が零れたものだから、見取り図からちらりと視線を上げて見たが、既に孫市の前には幸村と別れた後と同じ風景しか広がっていなかった。間の抜けた烏はきっと忙しなく飛び回り、主の元へと戻ったのだろう。

黒色過剰反応

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