いつの頃からか、佐助の左腕には蛇が住み着いていた。蛇、といっても鱗模様の鮮明な姿をしている訳ではなく、墨で塗り潰したような黒々とした影が手首に尾を巻き付け、肘へと頭を向けている。はて面妖な、さては化かされているのかしらんと首を捻り捻り、それでも仕事は勿論、普段の生活でも不便を感じずにいたものだから特に気にせず、今の今まで放っておいた。どうやらその蛇は佐助以外の目には見えていないらしい。共に戦場を駆ける同胞はおろか、動物めいて変に聡い所のある幸村でさえ佐助の腕にいる蛇について言及した事は一度も無い。これはそういったものなのだな、と納得してしまえばそれで落ち着いた。

 蛇は日を追うにつれ、ほんの僅かだが成長しているようだった。そして動いている。空を流れる雲よりももっと遅いが、ある日ふと目を落としてみれば位置が変わっている。手首に巻き付いていた尾は今や肘の上におり、小さな頭と思わしき脹らみは肩口へと差し掛かっている。肩を過ぎれば次はどこを目指すやら、せめて目の届く所にいてくれれば良いものを、と思った所で蛇が言う事を聞く筈も無い。蟲飼いの術を知らぬではないが、身体に住み着いた蛇を躾ける方法なんて聞いた事も無い。

 雨のそぼ降る黄昏時の薄暗さは、一番視界が不明瞭に翳る。生温い雨水が髪から忍び装束からひたひたと濡らして行く中、飛び散る血はすぐに流されて行く。打ち捨てられた骸から漂う血の匂いに雨の匂いが混ざって、鉄砲隊の使う火薬の煙に流される。現世に地獄があるならば、戦場がそうなのだろう。呆気無い程に人は死に、裂けた皮膚や折れた骨に生きている事を実感する。泥水を這う様に累々と並ぶ屍体に混ざり、死に損ねの呻き声やすすり泣きを雨音が掻き消す。姿の見えない総大将を追う様に追うように走り出した佐助の周囲に己の足で立っている人の姿は無い。ずしりと重い肩に丸まりそうになる背筋を震わせ、背筋を緊張させて走る。腕が締め付けられる様に痛い。息が切れる。普段は意識せずとも殺せる呼気が、溺れるように押さえきれず口から零れていくのが耳障りだった。痺れる様に重い肩。左腕だけままならない。蛇の棲む腕。

 ぶつり、と首筋の皮膚を食い破った痛みの後、込み上げて来た何かに咳き込む。眩む視界は薄暗いというのに口元を覆った手を開いてみれば、徒花のように赤い血が滴っていた。血の赤が黒に転じて、そこから先の事を佐助は覚えていない。

徒花の蛇

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