轟々と耳元で唸る風の音に幸村は顔を上げた。薄い水色に砂っぽい黄色が混ざり、山の縁が蕩ける様に赤い黄昏時。前の晩、本陣で香った水気の多い夏の夜の匂いは遠く、今やすっかりと脂の混ざったねばつくような空気で辺りは満ちていた。鼻につくのは骨の髄の焦げる匂いか、或いは肉の焼ける生臭さか、鼻を鳴らした所で嗅覚なぞ疾うに馬鹿になってしまっている。赤毛の忍びでもこの場に居ればさぞ喧しく不満を零した事だろう。旦那、此処はきっと根の国と同じ匂いがするよ、と。

 耄けた様に見上げた空の天高い所を鳶が飛んでいる。くるりと弧を描く影絵の様な輪郭を目で追いかけていた幸村の顎先が、不意に後ろ髪を引かれてぐんと持ち上がる。ちりちりと髪の先が焦げる様な不快な感触に一瞥もくれぬまま、肘から先を振い鈍い挙動で紅蓮の槍を横凪ぐと、ずしりとした質量が柄を伝い手の平を震わせた。貫いたのは、腕だった。肘より先しかない、腕ひとつ。爪は血が凝り固まって黒ずみ、皮膚は青黒く変色している。断面の肉からはもう、鮮紅色は失われているであろう、腕を貫いた槍を眼前へと翳し、そうして悼む様に双眸を伏せて地に振り落とすと、草むらへと転がった腕は赤い炎に包まれた。べたつくような空気に、唇がぬめる。

「佐助」

 呼ぶ声は決して大きくは無い。寧ろ、普段の幸村を思えば潜められた様な声だ。けれどそれに応じる声も、またささやかに小さい。

「はいよ」
「お前は死ぬな」

 死ぬな、と繰り返す声に、影を伝う忍びは答えない。

「決して、死んではならぬ。自ら命を絶つ事も許さん。この戦を、世の末を見届けよ」
「……それは、大将命令ですか」
「いいや」

 空ばかりを見ていた幸村が、頚を巡らせ振り返る。幸村の影の内側、ぽつんと立つ痩せぎすの忍びは血泥に汚れ、疲弊の色を濃く纏っていたが見慣れた顔だった。口端を少しだけ持上げた、笑っている様な、困っている様な、曖昧な表情。螺子の外れた様な笑みを浮かべ飄々と人を食った様な声とは別の、素に近いその顔に、幸村が笑う。

「お前の主としての頼みだ。某の両のまなこではきっと、見る事は叶わぬだろう。だからお前に託す」
「死んだ後まで、忍び使いが荒いですよ……旦那」
「頼んだ、佐助」

 応と答えぬ忍びへ、もう一度笑ってから幸村は二槍を地に突き立て、鉢巻を外してきつく結び直した。もう暮れる空も、背後の忍びにも目をくれず、見据える先には歩兵隊と掲げられた葵の旗印がはためく。

然様ならばまた何れ

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