幼い頃から、人には見えぬものが見えていた。それは腕の様な形をしたもやだったり、顔の無い黒い影だったり、形こそ様々だったが、全て人の形、或いはその一部分で市の前に現れては何をするでも無く、目を離した隙に霞の様に消え去った。それが良く無いものなのだと、誰に言われるでも無く市は理解していた。他言した事は一度も無い。ただ時折、兄の苛烈なまでに鋭い視線の先にその靄があるのを見掛けた時に、悟ったのだ。兄さまと市にしか、これらは見えておらぬ。もしかしたら、探せばそういった特異な目を持つものはもっと居るのかも知れない。けれどそれは、城の中で自ら進んで捕われている市には関わる事の出来ぬ領分だ。
 農姫に呼ばれ、軍議を行っている兄の元へ向う途中。伽羅木の根元、枝が落とす影の中でゆるゆると動く靄を見付けて市の足が止まった。腕、ではなく、蛇の様に、ぐずぐずと形を崩しながら這う様に蜷局を巻くその靄が、死にかけた動物のようで目が離せぬままでいたその視界に、ふと影が差す。それが大きな手の平だと気付いたのは、数度瞬きをしてからだった。手首の内側の、青い血管が透ける生白い皮膚。固い指腹には傷が有る。
「御市殿、あれは見てはならぬものです」
「……勝家、さま?」
「見えぬ振りをしていれば、そのうちに見えぬ様になります。貴女は暗がりに惹かれ過ぎる」
「勝家さまにも、見えているの…?わたしと、兄さまだけかと思っていたわ」
 ゆっくりと瞬いてから、視線を反らすと掲げられていた手が弛緩した。肩越しに振り返ると、表情の薄い人形の様な顔が市を見下ろしている。見鬼の才があるのかと問うた声に応じず視線を伏せた勝家は、市の視界を遮った手の平で渡り廊下の先を示した。その先には、軍議の行われている広間がある。
「信長様と農姫様が、お待ちです」
「そうね、…兄さまに叱られてしまう」

 雪が解け、寒さは和らぎ、日差しの温かさに息がし易くなる頃。開け払った丸窓から、白い光が差し込む部屋は影がより濃く蟠っているようで、草木も芽吹き始めると言うのに冬の名残の様な冷たさがそこここに残っていた。ぼんやりと壁に凭れ、蘭丸が置いて行った紙風船を眺めていた市の前でゆるりと黒い腕が揺らぐ。ぽん、と紙風船を指先で弾いた市の動きを真似する様に、肘から先だけが影から伸びた黒い手も紙風船を跳ねさせ、畳の上を転がして返す。意思の疎通が出来ているかは分からぬが、黒い腕は市の仕草を真似する事を覚えたらしい。霞の様な指は物を掴み、市の視線の動きに合わせてゆらゆらと、後を追いかけて来る。
 結局、市に見えぬ降りは出来なかった。目に飛び込んで来る全てを、否定出来なかった。それを見咎め、声を掛けてくれた勝家も今はもう、何も言わない。ぽん、と跳ねる紙風船に伸ばした手が鳥の鳴く声に、途中でだらりと力を無くして膝の上に落ちた。丸窓の枠にとまった、尾羽の青い鳥を見付けた市の目が、小さな丸い目や嘴や、羽の先の色なんかを見詰めて嬉しそうに微笑む。
「可愛い小鳥さん…」
 そうっと、脅かしてしまわぬ様にと恐る恐る市の手が伸びる。伸びて、けれど逃げられてしまったらと躊躇い、触れぬまま宙に留まった市の手を追い越す様に、ひゅるりと黒い手が伸び鳥を捕まえた。驚いた様に翼をばたつかせた鳥が、驚く市の目の前で、あっという間に生気を失い羽を散らしていく。黒い手の中から床の上へ、羽を散らし落ちた鳥はもう囀らない。目も、羽も、もうぴくりとも動かない。瞬きもせずにその一部始終を見ていた市は、伸ばしたままだった手を胸へと引き寄せ、震える左手で強く握りしめて俯いた。肩口から滑り落ちた重く長い黒髪が、涙の代わりにはらはらと着物の上に広がって、散る。

おにごっこ

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