春に行われる年に一度の健康診断が、赤葦には憂鬱で仕方が無い。

「また視力下がったの」
「無くても見えるには見えるんですけどね」
 教室の一番後ろの席だと、黒板の文字が見難いです。
 赤葦がそう喩えると、カウンターの向かいに座った黒尾がふうん、と気の無い相槌を零した。黒尾は店番をしている時は必ず眼鏡を掛けていた。度付きなのかと聞いた事があるが、大体は度無しの伊達眼鏡らしい。普段のにやついて細く眇める事が多い双眸は、眼鏡をかけているとその鋭さが隠れてしまって雰囲気ががらりと変わる。今日明日掛けているのは、赤葦が一番見慣れた太い黒縁セルフレームだった。眼鏡のレンズの向こう、伏せられた目蓋がフレームに隠れてしまっているのをどこか残念に思いながら、赤葦は艶のある飴色の木製コースターと、その上に置かれた切子硝子のグラスへ手を伸ばして口へと運ぶ。グラスの中身は、きんと冷たく冷えた香ばしい麦茶だった。溶けて角の丸くなった氷がぶつかって鳴る。
 赤葦は目が悪い。学校ではコンタクトを愛用しているが、家では眼鏡を使う事が多く、健康診断があるたびに手間ではあるがレンズの度数を変えていた。放課後、部活を休んで眼科へ行き、出してもらった処方箋を鞄から取り出しカウンターの上に置いて、一緒に眼鏡のケースも隣に並べると黒尾の手がするりと伸びてくる。先ず封筒の口を開いて中の処方箋を取り出し、紙面を一瞥して元の通りに折り畳む。それから眼鏡ケースを開いて、中に入っていたササ生地のセルロイド製フレームを持上げにんまりと黒尾は笑った。
「相変わらず。外す時に右手使ってるだろ」
 歪んでる。そう言いながら蝶番の部分を人差し指でつつけば、硝子カウンターの上でフレームがカタリ、と揺れた。

 高校に入学してから、正確には始めての合同合宿の日以来、常連と読んでも差し支えない程度に赤葦は足繁く、黒尾の実家である眼鏡屋へと通っている。合同合宿の初日の夜、目の調子が悪く眼鏡を掛けていた赤葦を見るなり、黒尾はこう言ったのだ。眼鏡、右手で外してるだろ。と。
「最初は何事かと思いました。他校の先輩だったから、言いませんでしたけど。胡散臭くて」
「ひでぇの。でも当たってたろ」
 風呂上がりの木兎が通りかかっていなければ、今こうして通う事も無かったかも知れない。実際、無意識の手癖を言い当てられて驚きよりも困惑の方が勝っていた。そんな赤葦へ、木兎は黒尾の背中を手の平でかろく叩きながら笑って太鼓判を推したのだ。コイツんちメガネ屋だからダイジョーブ!
 木兎のその言葉通り、黒尾は歪んでいた赤葦のフレームをあっという間に直してみせた。店の手伝いをするには未だ父親が許してくれないらしいが、歪みを直すのとフィッティングに関してはそれなりの腕前らしく、それまで長時間使っていると頭痛がするためやむを得ずコンタクトにした赤葦の悩みはひとつ、呆気無い程容易く解決してしまった。
 自覚が無い侭、解決に一役買った木兎は赤葦の健康診断の結果表、裸眼視力の項目にならぶ1に満たないコンマ幾つの数字を見た途端、俺の半分しかねーな!と片眉を吊り上げていた。矯正せずとも、生まれ持った両のまなこで遠く先を見据える事が出来るのは、彼らしいと言えば、らしい。

 麦茶のグラスを揺らしながら、記憶の中の台詞をなぞるような黒尾の声に思いを馳せていた赤葦の顔へ、黒尾が眼鏡を掛けようとして腕を伸ばす。コンタクトレンズが入ったままの両目に、眼鏡越しの視界はきつすぎた。ぐらりと目眩の様な、崩れる平衡感覚に目を閉じる。
「あれ、何。今日はコンタクト?」
「はい」
「そ。じゃあ、そのまま閉じといて」
 眼鏡の位置を直す様に動かした後、耳の付け根を指先で触られる。髪をかき上げて、蔓の掛かり具合を確かめているだと分かっていても、ふとした拍子に耳朶を掠める爪の感触がこそばゆくて、赤葦は知らず唇を浅く噛んだ。笑い出してしまいそうだ。
 耳回りを触っていた指先だけでなく、手の平で頬を覆われて顔を上げる様に促されて、知らず知らずのうちに俯いていた顔と、首筋を伸ばす。耳の付け根の位置を計る様に動いていた指先も、頬にあたる手の平も、柔らかくは無いが温かい。薄目を開けてみれば、思ったよりも近い位置に黒尾の顔があった。レンズ越しの双眸が真っ直ぐにこちらを見て、猫が笑う様に細められる。顔が傾いて、

 唇を塞がれる。

 重ねるだけの、児戯の様なキスを一度。離れ際に下唇を舐められて、赤葦が目を瞬かせていれば頬を包んでいた手の平が剥がれて、フレームを引き抜かれた。いつも通りの視界に、視点のピントを合わせようと瞬きを繰り返す赤葦を置いて、黒尾は椅子を引いて立ち上がるとカウンター奥の作業場へと踵を返してしまう。
「調整してくるから麦茶でも飲んで待ってな」
「……はい」
 余りにも平然と、常と変わらぬ口調の黒尾につられて思わず返事をしたあと。表情を変えぬまま、赤葦は意図を察する事が出来ずに俯いた。何が起きたのかは分かるが、なぜキスされたのか意味が分からない。
 グラスを持つ手が、逆上せる様に上がる体温の所為で濡れているのか、グラスの水滴で濡れているのか。一息に飲み干した麦茶はすっかりと氷が溶けてしまって、少しだけ生温かった。

黒尾眼鏡店

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