家が近くて子供の頃からずっと一緒だった。お陰ですっかりと、孤爪さんちの研磨くん、ではなく隣の研磨くんという扱いである。隣人よりも家族の方が近いくらいの立ち位置にもなれば、勝手知ったるなんとやら。少しばかり遅い時間にひょっこりと顔を出しても、それこそ顔パスで、鉄朗なら部屋に居るわよ、と用件を言う前に幼馴染みの居場所を教えて貰える。なんて至れり尽くせり。
 御邪魔します、と小さな声と挙借で挨拶をして、研磨は何度となく行き来した階段を今日も上り、廊下の突き当たりにある部屋へと真っ直ぐに進むと、コツコツと指節でおざなりなノックをする。返事の後、扉を開けばベッドに寄り掛かり、胡座をかきながら雑誌を呼んでいる幼馴染みの姿が目に入って、研磨は視線を少しだけ伏せて部屋の中へと踏み込む。
「珍しいな、こんな時間に。どした?」
「クロのプリント、こっちに紛れてた」
 部室で試験勉強してた時のかも。そう言いながら差し出した数枚のプリントを受け取った黒尾は、紙面をつらりと眺めてから笑った。
「サンキュ。助かる」
「ん、」
 それで、用は済んだ。後はもうこの部屋に居る理由は無い、の、だけれど。
 なんとなく未だ、部屋から出たく無い。そんな漠然とした気持ちを持て余す研磨を知らんぷりして、黒尾はプリントを傍らへと置いてまた雑誌を読み始める。月刊バレーボールの最新号だ。言葉も無く、黙った侭側に居る事は苦痛ではない。新作のゲームの発売日から数日は、研磨だってポータブルゲームを手放さずに黙々と没頭していて、黒尾へおざなりな反応しか出来ない事なんか今までだって数えきれないくらいにあった。
 そっと音を立てない様に、黒尾の背後にあるベッドの上へ勝手に乗り上がるとスプリングが揺れる。風呂上がりらしい黒尾の髪はいつもの寝癖であちこちに跳ねていないが、しろいタオルが巻かれていて額や耳元が露だった。未だ若干濡れてる襟足の髪や、耳朶のラインをぼんやり眺めているうち、気紛れの様に触ってみたいと、そう思った。思うだけでなく、緩慢に手が伸びて襟足の髪を摘んで、つん、と引っ張ってみる。
 反応、無し。
 薄くて軟骨の部分はかたい、福耳とはお世辞にも言えない薄っぺらな耳朶の裏に、ちいさなほくろを見付けた。今度は、耳朶を指先でなぞってみる。
 やっぱり、反応無し。

 雑誌の頁をめくる音ばかりが聞こえる静かな部屋の中、研磨は黒尾が無反応なのを良い事に、あちらこちらと、ちょっかいを出しては手を引っ込めていた。筋肉の張りつめた二の腕から、骨張った肩。真っ直ぐに伸びた背中の、肩甲骨のおうとつ。髪を押さえていたタオルの結び目はもう疾っくに解いてしまって、タオルは黒尾の首に引っ掛かっている状態だ。切るタイミングを見失って伸びたままの髪の毛先は未だ乾き切っていなくて、濡れて束になっている。触り易かった耳朶も髪に隠れてしまい、とうとう研磨の指が行き場を失った様にゆるりと力を無くした。これだけ触られ、弄られていても、当人は全く意にも介さず振り向きもしない。余程興味を引く様な記事があったのか、頁を捲る音も聞こえなくなった。いつもなら、何やってんだと、目を細め笑いながら振り返ってくれるのに。
 泥の入った水風船を割ってしまった様な、そんなどろどろした感情に一度目蓋を閉じて、身を乗り出す様に手をつく。シーツに皺が寄って、スプリングが軋んだ。ごち、と額を、黒尾の後頭部に寄せる。それで最後にするつもりだった。

 それまで何をしても、ちっとも動かなかった身体が揺らぐ。バサリ、雑誌を閉じて床に置く音がやけに大きく聞こえて、研磨の肩が少しだけ跳ねた。ぶつけたと言うには弱々しい触れ方だったので、痛みに驚いた、と言う訳ではないだろうが。じ、と黒尾の行動を見守る研磨の視界の先、振り返った黒尾は笑いを堪える様な、にやあとした笑みを浮かべていた。それこそ、猫みたいな半月の形に唇が口角を上げている。
「拗ねてんの」
 拗ねてるのでも、不貞腐れているのでもない。それは違う、と首を左右に揺らす研磨の両手を、さっきまで雑誌の頁を捲っていた黒尾の指が捕まえて、手首の内側に親指が来る様にして五指にやんわりと力を込める。痛みは無いが、振りほどけぬように加減された拘束の意図を計る様に、研磨の視線が黒尾を至近からじっと見詰める。相変わらず、にやついた笑みは崩れない。  薄い皮膚の上、重なったところが熱い。硬い指腹の感触は馴染むどころか、違和感ばかりを感じてしまう。ふと。閃く様に気付いた。親指の位置。まるで、病院で脈を取る医師のような、

 どくん、と心臓が跳ねた。意識しない様にと考えれば考える程、動悸が早くなってしまう。耳朶が熱い。
「ちょっと、クロ」
「んー?」
「は、なして…」
「さっき散々俺で遊んでた癖に」
 だから駄目。目を覗き込む様に首を傾げながら、嗜める様に柔らかい声が研磨の声を却下する。
 表情だけならば、取り繕う事等難しくは無いのに。心臓だけは、跳ねる鼓動や逆上せる様に温度を上げる体温を、この状況で誤魔化す術が思い付かない。耳朶どころか、頬も首筋も赤くして、唇を引き結ぶ研磨の眉が困り果てた様に下がるのを見ても、黒尾は手を離さない。それどころか、また早くなった、と余計な事まで言って来るものだから、研磨が陥落するまでにそう時間は掛からなかった。へなへなと背中を丸めて、逃げ場の無い研磨が顔を伏せる様に黒尾の肩口に凭れる。

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