体育館のメンテナンスで業者が入るため、本日の部活は急遽休みとなった。昼休みに連絡が回って来て、突然のぽっかり空いた放課後の時間を、さてどうしようかと考えながら受ける六限の授業はただひたすらに眠い。窓の外は梅雨の晴間が広がって、ただ座っているだけなのにじんわりと汗ばむ様な陽気だった。これから増々気温は上がり、日差しの刺さる様な夏がやって来る。長袖のシャツの袖を肘下まで捲り、くるくるとシャーペンを指で回しながら、頬杖をついて板書するのに飽きてしまった中途半端に余白の多いノートを見下ろす視野に、ちかりと青い光が飛び込む。机の中にいれておいたスマホのLEDが音も無く点滅する。そっと教壇に立つ教師を見遣り、頬杖を崩して左手でスマホのロックを解除してディスプレイに指先を滑らせた。受信したメールは一件。差出人に表示された名前は、木兎光太郎。
(授業中に何やってるんだ、あの人は)
 訝しがりながら開いたメールの文面は簡潔だった。そして意味が分からない。
 放課後、第二音楽室に集合。ただそれきり。

 HRを終え、教室を出ると赤葦は正面玄関では無く特別教室の集まった棟へと向かった。授業中に受信したメールは、第二音楽室へ呼びつけるあの一通きりでその後の音信は何も無い。スマホを片手に廊下を歩き、やがて第二音楽室とプレートの掲げられた扉の前で足を止めた赤葦は、薄らと眉を顰めた。扉の表面には、使用禁止、と大きくプリントされたコピー用紙が貼られている。
 プレートの漢数字を確かめて、メールの文面を確かめて。どちらも間違っていないのを二度見して溜め息を零しながら、扉に手を掛ける。鍵がかかっているのではという危惧はあっさりと外れ、軋みもせずに蝶番は滑らかに動いた。敷居を跨ぎ、後ろ手に扉を閉めれば防音扉の向こうから、微かではあるが音が聞こえて来る。辿々しい旋律は間違いない。ピアノの音だ。

 重たい防音扉を開いた先、室内には使われていないらしい机や椅子がごたごたと並び、黒板近くに黒い大きなグランドピアノが一台置かれていた。そのピアノに向き合う様に、椅子に座っている相手を見た途端、薄々予想していたとはいえ赤葦は表情薄い侭に心底驚いた。
「……ピアノ、弾けたんですね。木兎さん」
「おー、赤葦お疲れ−」
 余韻を残して途切れた音の代わりに、聞き慣れた声が室内に響く。おいでおいでと手招く様に揺れる指先に促され、戸口から離れて木兎の元へと歩み寄れば艶のある鍵盤の上を、また指先が跳ねる。
「ガキんときに習っててさあ。ピアノ。中学上がる時に辞めたけど、案外覚えてるもんだな」
 手遊びの様にほろほろと音を鳴らす木兎は、部活のときに見る様な表情とは違うけれど、どことなく楽しそうだった。
「俺、あまり楽器とかは詳しく無いので練習には付き合えないですよ」
 今日、呼び出した理由がピアノならば。それこそ、スパイク練習のようには付き合えない。赤葦は楽器を習った事なんて無かったし音楽の授業で触るのが精々で、まともに音を出せるとしたら口笛くらいなものだ。ピアノに一番近い所にぽつんと置かれていた椅子に浅く腰を下ろして、若干の申し訳無さを滲ませながら木兎の意図を計る様に釘を刺した赤葦の顔を、なんだそんなこと、と言わんばかりに片眉を跳ね上げた木兎が流し見る。
「練習じゃなくってさ。付き合って欲しいんだ」
「スパイク練だったらもう散々付き合ってますよね?」
「そっちじゃなくって!」
 浅く叩いていた鍵盤から指を浮かせて、唇をきゅっと引き結んだ木兎が居住いを正して赤葦へと向き直る。それにつられるように、赤葦も口を噤んだ。背筋は元より、真っ直ぐに伸びている。
「赤葦、俺と付き合って」
「……ボケるのも面倒なんで率直に言いますけど。恋人、って意味でですか」
「うん。期間限定で」
 意味が分からない。
 突拍子も無い告白に、赤葦は無表情のまま固まった。そもそもこれは、告白と呼んで差し支えが無いのだろうか。口調だけならば自販でジュース買って来て、と使い走りを頼むときと大差がない様に思えて、反応し難い。赤葦の心情を汲み取ったのか、それとも沈黙に耐えかねたのか。引き結んだ口端を下げながら木兎が拝む様に両手を合わせて目を伏せた。
「じゃあ、36日間だけ。たーのーむーよー」
「なんですかその中途半端な日数…」
「鍵盤の数」
 これは新手のドッキリか何かなのだろうか。準備室には他の三年生が控えていて、赤葦の回答次第で扉を開けて出てくるんじゃないのか。物音がしないか、他者の気配を探る様に黙り込んだままの赤葦は、耳を峙ててみたがピアノの音もしない音楽室の中は全くの無音だった。鍵盤の数を目視で数える間も状況を変わらない。確かに木兎の言う通り、黒鍵の数は36個だというのが確認出来ただけだ。
「…何か。事情があるんですか」
「だめ、秘密」
「ちょっと、」
「今はまだ言えないけど、ちゃんと言う。約束する」
 なんだか担がれているような気がしてならないが、今の現状で一番訳が分からないのは己自身だ。何か事情がありそうだとはいえ、期間限定で恋人になって欲しいと言われて嫌悪感一つ浮かんで来ない。動揺や若干の煩わしさしか無い胸中に、大概慣らされたな、と溜め息を零して赤葦は考える事を放棄した。木兎相手に理詰めの問答で押し勝つ事なぞ出来たためしがないし、力押しなんてもっと無理だ。
「分かりました。事情の説明は、必ずして下さいね。後、もうひとつ条件が」
「いーよー」
「未だ言ってないのにそんな安請け負いして」
「いいって。なあに」
「……時々でいいので。ピアノ、弾いてる所が見たいです」
「俺あんま上手かねぇよ?」
「構いません」
 バレー一辺倒だと思っていた木兎の、意外な一面をもっとしっかりと見てみたいという欲求の方が、勝った。付け足された赤葦からの条件を、首を捻りながら聞き届けた木兎が小さく鼻を鳴らす。唇をへろりと舌先で舐めて、ピアノに改めて向き直ると指鳴らしの様に両手を動かす。響くアルペジオが、壁に跳ね返って反響するような錯覚を覚えて赤葦は目を細めた。
「ふうん。じゃあ、」
 先ずは、さっきのをもっぺん。最初から。鍵盤の上を、無骨な硬い指が滑り出す。

黒鍵のこいびと-36

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