「味が分かんないんだ」
 数量限定、長蛇の列に並んでも買えるかどうかは運次第という、噂の有名パティスリーのアップルパイ。が、案の定買えなかったので林檎を使ったお菓子にしといたわ、と、15時になるかならないかの絶妙な時間に帰宅した母親に託されたタルトタタンを切り分け、白い皿へ取り分けた黒尾は一旦手を止めて、幼馴染みの顔をまじまじと見詰めた。
「いつから?」
「今朝。朝ご飯の味がしなくて、…色々試してみたんだけど、全部だめ」
 嘆くには随分と静かなその告白に黒尾はすぐに答えず、二人分のタルトタタンを残して欠けたホールを箱の中へと戻すと、細いフォークを添えた皿をひとつ、研磨の前へと置いてやる。もう一つを自分の前に置いて、けれどフォークに手を伸ばさず床の上に座ると行儀悪く頬杖をついて研磨を見上げた。リビングのソファの隅、最近気に入っているらしいクッションを抱える様に膝を折り曲げ、小さく背中を丸めて座っている研磨の視線は赤褐色にキャラメリゼされた林檎をじっと見詰めている。眉間には薄らと皺が寄っていて、不機嫌というよりは何処か不安そうな面持ちだ。
 暫く二人ともが黙り込む。エアコンの動く音だけが静かに響く室内は外の蒸し暑さが嘘の様に心地良い。部屋着にしているハーフパンツから覗く膝頭を擦り寄せ、ますます研磨の顔がクッションに沈んでゆきついには目元も何も、すっかり隠れてしまったのを見て黒尾は頬杖を崩して立ち上がる。数歩の距離を大股に詰めて、悠々とスペースの空いたソファ、研磨の隣へと腰を下ろして、丸くなる研磨へと向かい合うように座り直すと、躊躇無く腕を伸ばしてむんずとクッションを掴み、そのまま力任せに引っ張った。ビーズの詰まったクッションがすっぽ抜けて、研磨の額が支えをなくして自分の膝頭にぶつかる鈍い音が鳴る。研磨はどこもかしこも骨張っているから、さぞや痛かったろう。思いはすれど謝りもしない黒尾を、恨めし気に研磨が見遣るがそんなのはお構い無しで、黒尾はクッションを背後に投げ置いて、もう一度腕を伸ばす。今度は、研磨の顎を捕まえに。
「何するの」
「何されると思う?」
 顔の小ささに見合った、細い顎を指先で捉えて、自分の方を向く様にやんわりと、けれど逃げられない様に加減しながら顔を上げさせる黒尾を見る研磨の視線は、不貞腐れた様に目蓋を伏せて黒尾の視線から逃げた。眉間の皺が、少しだけ深くなる。
「質問してるのは、俺だよ。クロ」
「口開けて」
「クロ、」
「あーん、て。ほら」
「………」
 口の中を調べるつもりなのか、口を開けてみろという黒尾の声に反して研磨の唇は引き結ばれた、下がる口角は不機嫌そのもので、自由に動けるならば顔ごとそっぽを向いていたかも知れない。そんな研磨の無言の主張を意にも介さず、頑固に閉じたままの唇を見詰める黒尾の、切れ長な目がゆっくりと瞬いた。
「研磨」
 毒の様な。聴覚を浸して行く低い声が、ゆっくりと名前を呼ぶ。噛み締めていた奥歯のあわせがほどけて弛むのを、顎を押さえていた指先から感じ取ったのか黒尾の唇が弧を描く。低くて重い声とは真逆に、軽薄なにやついた笑みにぎゅ、と一度きつく目を閉じてから渋々といった体で開いた口の中を覗き込むように、黒尾の視線が下がる。歯医者でもないのに口の中を覗かれる事の奇妙な恥ずかしさに、目を閉じたままでいたが。唇の隙間を通り抜けて、顎を支えていた親指が潜り込んで来た途端、驚きにがちんとおとがいが閉じた。歯列の間に、柔い皮膚と硬い骨の感触が直に伝わって目を見開いた研磨の目が、喋る事の出来ぬ代わりに雄弁に物語る。警戒する猫の様な眼差しをのらりくらりと住なし、歯を立てられた痛みに表情も変えぬまま、対の手を持上げて人差し指と中指が滑る様に喉元を撫ぜた。猫の顎をくすぐるみたいに尖った喉仏を指腹でなぞられるこそばゆさに眉を顰め、押し止める様に噛み付いていた前歯がおずおずと力を無くしてゆく。
「傷、が在る訳でも無いし。火傷とも違うみたいだな」
 ぐ、と前歯を親指佐の腹で押して開けさせた口の中を覗き込み、舌の状態を確認する。視認するだけでは足らぬのか、前歯を押さえていた親指とは別に人差し指が口内へ潜り、粘膜の内側をこそぐように指先で弄られ、苦し気に研磨の喉が喘ぐ。口の中に堪った唾液が溢れてしまわぬ様にと飲み込んだ音が、やけに大きく響いた気がした。
 エナメル質の硬い歯の表面をなぞり、丸くなった舌先の、表面や裏側を指先が辿る。深く切り揃えられた爪が引っ掻くような事はないが、それでも異物感に息が詰まる。切れ切れに細く呼気を逃がす研磨の、上顎を指腹がそろりと撫でた瞬間、堪えきれずに肩が跳ねた。
「ん、んぅ、」
「痛くしたりしねぇから、もうちょっとだけ」
 大人しくしてろ。そう宥める声を紡ぐ喉も唇も。甘やかし労る様な言葉を吐くのに、どうしてそんなに楽しそうにしているのか。指がふやけてしまうのではと思うくらい、飽きずに粘膜をなぞる指先に、甘噛みをして研磨は諦観に身体の力を抜いた。立てていた膝を崩して、黒尾の膝に手を乗せる様に身を乗り出し、せめて早く終われば良いと、目を閉じる。



 さんざに弄られ嬲られ、顎の怠さに黒尾の太腿を枕代わりにしてぐったりと寝そべる研磨の頬が林檎の様に赤い。熱を残したままの頬を、薄ら赤くなった歯形の窪みが残る指先がゆるゆると撫でるのを払う気力も無くさせたままにしていたが、胃の引き攣る様な空腹感に漸く身体を起こした研磨の視線が、テーブルの上に乗ったまま、放っておかれたタルトタタンへと向いた。
 目敏くそれに気付いた黒尾が腕を伸ばし、若干表面は乾いてしまったが色艶もほろ苦い甘い香りも損なわれていないケーキの皿を取り上げて研磨に手渡す。黙って受け取り、フォークをつまむ研磨の指は、のろい動きで小さくリンゴとタルト生地を切り分けた。口へ運ぶまでに、少しばかり逡巡して。柔らかい林檎の刺さったフォークの先を食む。口の中に広がる、林檎と砂糖の甘さ、塩気のあるタルト生地とバターの味。噤んだ口の中、咀嚼する音は小さく、飲み込む音なぞもっと小さい。
「……甘い」
「そりゃ良かった」
 こくりと動いた喉仏を見守る黒尾を、一瞥もせずに呟く声をしっかりと聞き届けた後。良い子、とばかりに研磨の頭を、黒尾の手の平が撫でる。

箍を揺らす

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