たかがこれしきの事でと、侮っていたのだ。

 ぐらつく視界、鮮明過ぎる程に良く見えるけれど物の形が微妙に歪んで見えるというのはどうやら想像したよりも負担が大きい様で、新調したばかりの眼鏡を掛けて数時間も経たずに吐き気と眼精疲労に見舞われ、赤葦の気分は最悪だった。眼鏡を掛ければ見えるが気分が悪く、外せば今度は歩くのすら覚束ない。人の出入りが多い駅や大通りなんかはとてもじゃないが眼鏡無しでは移動できず、込み上げる吐き気を堪えながら辿り着いた店の、くすんだ金色の扉を半ば身体で押し開けるようにして踏み込む。扉の開く音に、カウンターの内側で紙束を捲っていた黒尾が顔を上げるのが視界の端にちらりと見えた。ような気がする。
「赤葦じゃんか。何だよ、どうしたおい」
「黒尾さん」
「んー?」
「気持ち悪い…」
「お前、人の顔見てそりゃねえだろ」
 本気にした訳では無いだろう、嗜める声に答える事が出来ぬ侭、俯いた赤葦の視界に磨かれた黒革の靴の爪先が映る。カウンターを出て戸口から動こうとしない赤葦の傍へと遣って来た、黒尾の足だ。顔を上げられぬまま、息を整える様に意識してゆっくりと呼吸をする赤葦の様子を見て軽口は続かず、両側から顔を覆う様に伸ばされた手の平の体温に堪えきれず目蓋を閉じた。  体温を調べる様に指腹で首や耳元を触り、そのまま眼鏡のフレームを静かに外した黒尾はつるを折り畳んで自分のシャツの襟ぐりに引っ掛けると、口元を押さえていた赤葦の右手の手首をやんわり掴んで引いた。視界のぼやけた赤葦がついていけるくらいの、ゆっくりとした歩調で店内を横切りカウンターへと誘導する。スツールの傍まで来て腰を下ろすと途端に疲労感がどっと込み上げて、らしくなく赤葦はカウンターに頬杖を着いた。そのまま、体重を支えきれずに腕が傾いてカウンターに突っ伏す。
「眼精疲労?」
「……なんで、」
「なんとなく」
 眼鏡新しいし、と勘の良い黒尾の声が遠い。何かを探している様な物音の後、規則正しい靴音がこちらへ近付いて来ると、隣のスツールを引く音と腰を下ろす衣擦れの音が聞こえて、赤葦は伏せていた顔を少しだけ持上げた。
「前のはどしたよ」
「壊れてしまって。コンタクトも今日は持って来てなかったので、取り急ぎ作ったんですけど」
「同じ度数で作らなかったの」
「レンズが、片方無くなってしまいまして」
「あー。そりゃあ災難だったなあ」
 シャツに引っ掛けていたフレームを引き抜いて黒尾の手が丁寧につるを開く。鼈甲をモノトーンにしたような、色むらの有るデミ柄の端々に鮮やかな青が混ざったフレームのデザインに、黒尾が綺麗だな、と目を細めた。綺麗、という言葉を照れも無く使うその声に相槌すらも返さずにいれば、眼前に翳してレンズ越しに赤葦を眺めていた黒尾の目が瞬いて、手首を返しまじまじとレンズを眺めたかと思いや、照明に翳す様にフレームを持上げた。
「これさあ。乱視、入れた?」
「嗚呼、……はい。確か」
 立ち寄った眼鏡店で視力検査をした時に、測定をしてくれた従業員の声が脳裏に蘇る。
「掛け慣らしが必要かもしれませんが、慣れればこっちの方がよく見えますよ、って」
「慣らしもしないで掛けっぱなしにしてりゃ、そら気持ち悪くもなるだろよ」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
 ぴり、と封を切る様な音の後、白いマスクのようなものを広げる黒尾の手元を眺めていた赤葦の鼻先に、花の様な香りがふわりと届いた。女子が好む甘ったるい匂いではなくて、もっと微かな。
「これ、何の匂いですか」
「カモミール。気になる?」
「いえ、大丈夫です。……けど」
 視界を覆うアイマスクに赤葦の声が戸惑う様に揺れる。大丈夫大丈夫、と犬猫をあやすような声で取り合わずに、黒尾は手際良く赤葦の耳にアイマスクの紐を引っ掛けてやる。
「試供品なんだけどな。まあ、これ着けてちょっと休んでなさいよ。大分楽になると思うぜ」
「はあ」
 じんわりと温かいアイマスクは確かに心地良い。カモミールの香りも、気に成る程では無い。何より、近いところから聞こえる笑いを含んだ様な声と、癖毛を梳いて旋毛のあたりを緩く撫でる手の平の感触に、ふ、と息を吐き出して赤葦は自分の腕を枕に、顔を伏せて考える事を止めた。

 目蓋を閉じているだけのつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。薄れたカモミールの匂いと、すっかり温くなってしまったアイマスクを外して身体を起こすと、カウンターの内側に座り直していた黒尾が気付いてにんまりと、口端を釣り上げて笑った。
「オハヨ」
「すみません…寝てました」
「調子は?」
「大分、というか落ち着きました。まあ、相変わらず裸眼なので見えませんけど」
 吐き気や目眩は治まったものの、視界がぼやけているのに変わりは無い。近い場所、例えばカウンターに座っている黒尾の顔だとか、手の届く範囲でなら不自由は無いが遠くは絵の具が滲んでいるような有様で、輪郭がはっきりと分からない。これでは帰りもまたあの眼鏡を掛けるしか無かろうなと、眉間を指節で揉みながら溜め息を零す赤葦に玄米茶のグラスを置いてやりながら、黒尾が小さなボディバックを手にカウンターから出て来る。違和感を覚えてまじまじと、改めて黒尾の格好を頭の天辺、はいつも通りなので除外して首から下、爪先までを眺めて赤葦は黙り込んだ。
「……着替えました?」
「うん。暑ぃのにシャツなんか着てらんねえよ」
「そんな格好で店番してるのは、初めて見ました」
 紺色のポロシャツと、色落ちしたストレートデニム。足下は歩き易そうなサンダルで、ラフ過ぎやしないかとしみじみ呟いた赤葦を呆れた様に眺める黒尾は、赤葦の座るスツールの足は行儀悪く爪先で小突いた。
「何言ってんの。これから眼鏡作った店に行くよ」
「顧客を取られた腹いせに殴り込みですか…」
「はっはぁ、俺ほど平和を愛する男はいねえよ?」
「木兎さんと仲が良いのも納得ですね」
「あれなんか刺が無い、その言い方」
「気の所為じゃないですか」
 話の本題に触れないまま嘯く黒尾の、言わんとしている事に察しはついている。付き合いが良過ぎるのも損をしそうだなと、思う反面でその付き合いの良さを、有り難く思う矛盾を、玄米茶と一緒に飲み込んだ。時計の嵌った左手首をいつもより持上げて時間を確かめて、香ばしい玄米茶を飲み干しグラスを空にした赤葦がスツールから立ち上がる。
「手ぇ繋いで行く?」
「それはちょっと」
「まあまあ」
「いえ本当に」
 店の中ならば兎も角、往来で目立つ長駆の男が二人、手を繋いで歩く姿は想像せずとも色んな意味で暑苦しい。或いは寒々しい。押し問答をしながら並び立って歩き出した赤葦を誘導する様に、半歩先を歩く黒尾は結局、手を繋ぐ事はしないが女性相手にしたらさぞや好感を獲られそうなエスコート振りを見せつけた。あ、この人面白がってるだけだ。と赤葦が気付いたのは、眼鏡を作り直した後だが、けれどもう、はっきりと鮮明に、けれど見え過ぎる事の無い視界の中で良かったなあ、と目を細めて笑う黒尾へそれを言う気にはなれなかった。別れ際、またおいで、と手を振っていたあの男が不思議と、憎めない。

黒尾眼鏡店 サービス残業

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