別に態々、電車を乗り継いで配達に出る事も無いのだ。そもそも、宅配サービスなんて取り扱っている訳では無いのだし、品物をきちんと仕上げ、磨き、いつでも使える様に確りとメンテナンスを済ませればそれで終わりの筈だが、この場合は半分以上が不純な動機に因っている。至って明快、単純でシンプルな理由。赤葦の家業を手伝う姿を見たい。ただそれだけの目的を果たす為に、緩やかにホームへ滑り込んだ電車のドアが開くタイミングに合わせて、黒尾は改札へと向かって歩き出す。冷房で冷えた電車の中とは打って変わって、じりじりと焦げ付く様な日差しと熱気に、汗が吹き出るのが見なくても分かる。成る可く日陰を選んで歩き出したその足取りは、暑さの中でもだれずにかろい調子だった。

 金色の真鍮製のドアノブを捻り、開いた扉のカウベルがカラコロと響く。
皹割れた卵の様な硝子のモールランプがそこここに吊るされている店内は明るいとは言い難く、つい外の明るさに慣れた目を細めてしまう。背後で閉まる扉の音を聞きながら、徐々に慣れて来た視界の中、空いたグラスを乗せた盆を手にテーブルを拭いているウエイターの後ろ姿を見付けて黒尾は目を細めるのを止めた。グレーのシャツに黒のトラウザーズ、そして同色の黒いロングサロンを巻いた相手の顔を見ずとも分かる。伸びた背筋と未だ肉の追いつかない骨っぽい長駆。それと癖毛。見間違えようものか。
「いらっしゃいませ、……」
 案内する為に一度店内を見渡してから振り返った赤葦は、黒尾の顔を視認した途端声を途切れさせ黙った。本来ならばその後に、お一人様ですか、お煙草は吸いますか、と続く筈だった口上は飲み込まれ、数秒の沈黙を挟んで開いた口から零れたのは完全に素の声だった。
「珍しいですね、店に来るなんて」
「ちょっと近くまで来る用事があったから、ついでに配達しに来た」
「配達ですか?」
「そう。親父さんの手元用眼鏡」
「ああ、」
 グラスの乗った盆を下げ台へと置き、指先に引っ掛ける様にして持上げられた小さなショッパーを見て合点がいったとばかりに赤葦が会釈をした。黒地に金色の飾り文字で、黒尾眼鏡店、とロゴが印刷された紙袋の中に見覚えの有る眼鏡ケースが鎮座しているのを確かめるように見下ろす。
「わざわざすみません。有り難う御座居ます」
「イエイエどういたしまして。下心があるのでお構いなく」
「はあ」
「珈琲ご馳走してよ。赤葦がいれてくれた奴ね」
「それは、……構いませんけど」
 ちら、と後ろを振り返った赤葦は、ちょっと待ってて下さいと言い残してバックヤードだろう場所へと消えて、それから手に金色の鍵を持って戻って来た。
「場所、変えても良いですか」
「もちろん。でも炎天下は出来れば勘弁して欲しいとこだな」
「まさか。追い出したりなんてしませんよ」
 どうぞこちらへ、と促す所作はウエイターそのもので、案内されたのはフロアの奥まった突き当たりにある扉の前だった。鍵を差し込む赤葦の背後から、両開きの扉を眺めて黒尾は少しだけ目を見張る。上背の有る黒尾が腕を伸ばしても、届くか届かないか。それぐらいに扉が大きい。一体どこに続く扉なのか、まさか物置ではあるまいなと、傍観する黒尾の目の前で錠の外れる音がして扉が開く。

「階段、急なので足下気を付けて下さい」
「すげえな。VIPルーム?」
「そんな洒落たもんじゃないです。大人数で予約があった時に使ってるんですよ」
 後は麻雀大会とか。そう言いながら、センサーで勝手に点いた灯りの下、地下へと続く階段を下ると上のフロアをぶち抜いた様な、広々とした部屋へと辿り着いた。誰かが使っていたのか橙色の灯りも空調も点いたままで、しかも声が響く程に静かだ。一人掛けのカウチとサイドテーブルが点々と並び、天井にはプロジェクターが設置されている。煉瓦と漆喰の壁はスクリーン代わりになるのだろう。珈琲店、と屋号にはあったが、もしかしたら夜になればバーとして営業しているのかもしれない。使い込まれて傷こそあるものの、木目の美しいバーカウンターの内側にはずらりと珈琲豆やドリッパーが並び、その上段には洋酒やリキュールの瓶もある。格好が格好なだけに、赤葦がまるでバーテンダーのようだ。
「アイス、は、手間がかかるので。ホットでも構いませんか」
「おー。任せる」
「豆は、どれにしましょう。好みとかあったら」
「苦く無いやつ。酸味があるのもちょっと」
「珈琲が飲みたいんですよね?」
「そうよ?」
「…分かりました」
 真顔で問う赤葦に真顔で答え、赤葦の手元が見える様にとカウンターの真ん中にあるスツールを選んで腰を下ろす。カウンターの内側で豆の入ったガラス瓶を眺めていた赤葦の手が、一番嵩の減っている瓶へ伸びて豆を計り、挽き目をダイアルで調整してからミルで挽くと、珈琲の香りが途端に広がって黒尾はすん、と鼻を鳴らした。ドリッパーとサーバーを用意する手付きに危うさや迷いは無く、まるで講師の様にも見えるがそれよりも既視感を覚えて仕方が無いのは。
「実験みたいだな」
「似た様なものですよ」
「ビーカーでラーメン作ったりとか」
「計量カップでも良ければ」
 ステンレス製の計量カップを指先に引っ掛ける赤葦の視線は、黒尾の方をちらりとも見やしない。手元へと落ちてばかりで、頬杖を着いた黒尾はカップを用意するその指先よりも、伏し目がちなそのしろい目蓋や睫毛のラインなんかをなんの気無しに眺めてしまう。放っておかれている、気がしないでもないが。ちょっとはこっち見ろよ、と思っていたら、不意に赤葦の目が真っ直ぐに黒尾を射抜いた。はつり、と瞬きをして、それから顔を背ける様に逃げられる。
「ねー、ちょっとー。傷付くんですけどー?」
「すみません。視線が煩くて」
「言うじゃねえか」
 ちぇ、と舌を鳴らして視線を落とす。フィルターの中に挽いた豆を入れ、中心を細い竹べらで窪ませてから湯を沸かしていた先の細いケトルを手に持って、赤葦が少しだけ目を細めたのが視野に映る。そっと盗み見れば、どこかで見た事の有る表情に記憶を浚い、思い当たる。部活の時。集中している時のかおだ。視線を戻せば、豆を蒸らす為にたたた、と湯を落とし、表面に細かな泡が出来たのを見てからケトルを傾けてお湯を注いで行く赤葦の手の甲に、薄らと血管が浮かんでいる。
「……あれ。何回かに分けていれるんじゃなかったっけ」
「苦いの、好きじゃあ無いんでしょう?」
「あんまりね」
「なら、こっちの方が飲み易いと思いますよ」
 くるくると、弧を描く様に落ちる湯量は均一で、珈琲豆を挽いていた時よりももっと風味の強い、ほろ苦い香りが立ち上る。空っぽだったサーバーの中が徐々に満ちて行くのを見て赤葦は手を止め、ケトルを下ろす。
「砂糖とミルクはどうしますか」
「んー。いいや。ひとまずそのままでちょうだい」
 真っ白な陶器のカップにいれたての珈琲を注ぎ、ソーサーに細いティースプーンを添えてカウンターへと出す手付きは手慣れたものだ。波立たせも零しもせず、目の前に置かれたカップからは柔らかな湯気が揺らいでいる。
「いただきます」
「はい」
 カップの取手を持って、一口。それから、ぎゅうと眉根が寄ってしまう。匂いこそ、ほろ苦い、深煎りされた珈琲のそれだというのに。
「何だこれ」
「苦いですか?」
「全然、ちっとも。つうか甘くて苦い」
「リクエスト通りにできたみたいで何よりです」
 黒尾の反応を見てから、サーバーに残っていた珈琲をカップに注いで赤葦も飲み始める。
「豆が違うとこんなに変わるもんなの?」
「豆自体は店で出してるブレンドですよ」
「……えー」
「試してみますか?」
 そう言って、同じ豆を使い、同じ道具を使い、ただ最初は一回で入れていたお湯を三回に分けていれた珈琲が、今度は白地に青い縁取りのカップに注がれる。利き酒ならぬ利き珈琲かと、二杯目のカップを傾けた黒尾の口端が若干下がった。目敏くそれに気付いた赤葦が、シュガーポットとミルクのピッチャーをカウンターに出す。
「俺最初の方が好きだわ。飲み易い」
「…それはどうも。豆が同じでも相手が違えば、味って結構変わりますよ」
 常連さん曰く、俺の珈琲は物足りないそうです。
 さらりと、そう言う赤葦の顔に悲観の色は無い。黒尾にとっては苦みも少なく飲み易い珈琲は、酸いも甘いも知った玄人の舌には物足りないのだろう。想像して、それから、黒尾は真っ白なカップに手を伸ばす。
「じゃあ、煎れ分けれるように練習しないとなあ。付き合おうか」
 カップを傾ける黒尾が、唆す様に提案するのをじ、と聞き拾った赤葦の呼気が、ふは、と笑みに揺れた。
「そうですね。気が向いたら、お願いします」
 焼き菓子か、ああ、そういえば貰い物の桃がありますけど食べますか。
 珈琲だけでは舌が休めぬだろうと、用意する赤葦の表情はもう、いつも通りだ。良いものを見た、と、唇が緩むのを隠す様に、黒尾はカップの縁を浅く食んだ。

赤葦珈琲店

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