赤葦のたててくれた珈琲を味わい、熟れて甘ったるくなる前の未だ身が固い桃を摘み、配達の駄賃にはもう十分過ぎる程堪能した黒尾だったが、赤葦の父親の、良かったら食事でもどうかな。という一言に遠慮せずに甘えた結果、未だ店を辞する事無く店の窓際の特等席に場所を変えて居座っていた。赤葦と言えば、その侭同席する訳にもいかぬようで今はもう家業を手伝うべく店に出ている。珈琲ばかりでは飽きるだろうからと出してくれた自家製ジンジャーエールのグラスの、表面にふつふつと浮いた水滴が小さな水溜りを作る。氷は緩やかに溶けて角を無くしていくが、生憎と手遊びのようにストローをつつくばかりで、黒尾の視線は一向に落ち着かない。
「お待たせしました。チキンとバジルのホットサンドと、生ハムとルッコラのパニーニ、ラタトゥイユサラダです」
 皺一つないシャツの袖を肘まで捲り、右手に真っ白な陶器のサラダプレート、左手で器用に二つの皿を持った赤葦が常連らしい二人連れの女性客のテーブルへ料理を運んでいる。どちらが何を頼んだのか覚えているようで、迷い無くそれぞれの前へサンドイッチの皿を置き、テーブルの中央へサラダプレートを置く手付きは手慣れたものだ。料理を置き、伝票をテーブルへ伏せた赤葦が踵を返えすと、女性の華やかな声が細波の様に笑みを含んで囁き合う。あの人いつ見てもかっこいい。ね。でも笑ってるところとか見てみたいよね。見たぁい。ねー。
「笑ってるところ、なあ…」
 思い出さずとも、ついさっき笑っているのを見たばかりの黒尾はしっかりと聞こえてしまったくすくすと笑い合う女性客の密やかな声に、頬杖を着く。案外あいつ笑ってると思うんだけど。店ではそうでもないのだろうか。
 噂されていると気付いて居るのか居ないのか、当の本人はレジの前で会計を済ませた親子を見送る様にドアを手で押さえている。ありがとうございました、またお待ちしております。声は聞こえないが、きっと見送りの言葉を言っているだろう唇が滑らかに動く。それから、ふと膝を折ってロングサロンの裾を捌きしゃがんだかと思えば、ばいばい、と手を振る子供と目線を合わせて指先を小さく振っている。その微笑ましい光景をぼんやりと眺めていたら、立ち上がった赤葦と目があった。はつ、と目を瞬かせた赤葦が小さく首を傾げて見せるのに、何でも無い、とひらひら手を振って黒尾は頬杖を崩す。キッチンへと向かう赤葦の後ろ姿を見送り、氷が溶けて薄くなったジンジャーエールのストローを銜える。しゅわりと舌を刺激する炭酸と生姜の辛さに、眉を寄せながら脳裏に思い浮かぶのは、合宿中のマネージャーと遣り取りしている赤葦の姿だった。副主将、というだけあってマネージャーと接する機会も多いのだろうが、何と言うか、あしらいが上手いのだ。音駒の山本のようながっつきと初心さは極論としても、もう少し思春期らしいときめきだとか照れなんかがあっても良い筈だろうと思うのだが、そう言った葛藤が赤葦には一切無い。もしかしたらあるのかも知れないが一見して分からない。あくまで自然体で、さり気なく気を配る配慮の手抜かりの無さ。その理由の一端を、今日垣間見た気がする。

 そんな手抜かりの無い男が、黒尾の元へと皿を運んで来る。ココット皿の乗ったプレートを、合計四枚。手首や腕の内側も使って悠々と運ぶその姿にもう溜め息しか出て来ない。
「赤葦イケメンだなあ」
「眉間に皺寄せながら言われても」
 片眉を吊り上げて黒尾の軽口に取り合わない赤葦は、プレートをテーブルの上に並べて行く。スモークサーモンとクリームチーズのマリネ、パンプキンのハニーグラタン、タラモサラダ、白身魚のフリット、チキンの香草焼き、ポップコーンシュリンプ、それからバゲット。
「…量多くね?」
「俺も食べます。今日はこれで上がりなんで」
 持ちきれなかったらしい飲み物を、代わりに盆に乗せて運んで来た小柄なウエイトレスの手からグラスを受け取りテーブルへ置けば、溜め息混じりにシャツのボタンを一つ外して赤葦が椅子を引く。座る前にサロンを脱ごうと結び目に伸びた手を何となく眺めて、それからちょっかいを出したがる黒尾の手が邪魔をする様に赤葦の手を捕まえる。
「俺が脱がしたい、それ」
「そんな趣味があったなんて初めて知りました」
「無いよこんな趣味。これ、どうなってんの」
「脱がす気満々じゃないですか…」
 いいですけど。言いながら、黒尾の手が届くようにと一歩距離を詰めた赤葦のサロンの結び目に指を引っかけていた右手が、そのまま流れる様に外れてサロンの端を摘む。それから、捲るようにぺら、と持上げてみたがスカートではないので当然、トラウザーズを履いた厭味ったらしい膝下の長い足が見えただけだった。
「楽しいですか」
「いや、あんまり。というか、がっかり?」
「……そうですか」
 完全に乗っからずに聞き流している時のような眼差しに降参する様に素直に感想を伝えて、サロンを捲るのを止めた黒尾の手が再度結び目に伸びる。蝶々結びのように見えるが実際は違うらしく、こっち持って、こう、と指示する赤葦の声の通りに結び目を解いて行くと、それまで腰骨の上あたりできっちりと巻かれていたサロンが徐々に緩んでいく。腰裏に回っていた紐を引き抜くと衣擦れの音が耳朶に届いて、思わず上目に赤葦の顔を盗み見れば赤葦の視線は黒尾の手をじ、と見詰めている。気付いていない。
「赤葦くーん」
 猫なで声、というならばきっとこれがそうだ。声のトーンを意識して、滑舌良く赤葦を呼ぶ。名前を呼ばれて、伏していた目蓋が持ち上がり真っ直ぐに黒尾を見下ろして来るのを見上げてにっこり、黒尾は笑った。笑いながら、緩んだサロンの隙間から指先を潜り込ませて、シャツの上の皺を避けて、 「……?は、―――ぃッ」
 とつ、と指先で突いた場所が、予想通り臍の窪みだったようで赤葦の声が引き攣る様に跳ねた。裏返った声を飲み込むように、咄嗟に口元を手の平で押さえた赤葦の視線が突き刺さる様に鋭い。それにへらりと笑って黒尾は緩んだサロンを今度こそ脱がす。睨まれたって、耳朶が赤くては迫力なんてありゃしない。
「――、黒尾さんて時々、変態臭いですよね」
「時々って事は、今日以外にもそう思った事があるって訳だ。失礼だなお前」
 黒尾の手からサロンを受け取り、くるくると折り畳む赤葦の視線がまだ何か仕出かすのではないかという疑念を含んで眇められるが、サロンを渡してからすっかりと大人しくなった黒尾の手元を一瞥し、長くは続かず険のある視線が徐々にやわらいでゆく。耳朶だけはそうもいかずにまだ赤いままではあるが、黒尾の対面にある椅子へ腰を下ろし、肘掛けとの隙間にサロンを押し込んでカトラリーケースへ手を伸ばして、黒尾の分までフォークを用意してくれる所作は甲斐甲斐しい。フォークの切っ先が若干、筋張った手の甲へ狙いを定めている様な気がしないでもないけれど。
「あしらわれるのも嫌いじゃないけど、やっぱ性に合わねえな」
「何の話ですか?」
「こっちの話」
 秘密と言わんばかり、にぃ、と唇を吊り上げて見せれば、それ以上追求するのを早々に諦めた赤葦が諦観滲ませ溜め息を零した。

赤葦珈琲店 デリカッセン

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