「起きたらこんな事になっていて」
「さては外さないでそのまま寝たな?」
 カウンターを挟んでお互いが神妙な面持ちで見下ろす先には一本の眼鏡がある。ベーシックなウェリントン型のグレーデミ、差し色の様に鮮やかな青が混ざったフレームは、聞けばイタリアの老舗メーカーの生地を使っているらしい。ついこの間新調したばかりで、艶のあるフレームのつるは美しさを損なわず、ただ角度だけがおかしな方向に歪んでいた。開いて平らな場所に置くと、つるの先が明らかに浮いている。
「多分大丈夫だと思うけど。金属疲労で蝶番、折れるかもしれねえぞ」
「どっちにしろ今のままは使い難いので。お願いします。今日はコンタクトしてますし」
 蝶番の歪みを確認する様に指でつるを触っている、黒尾がつけているのはいつもの黒縁ではなく、表側が朱色、裏側がクリアカラーの薄茶のフレームだ。鮮やかな色がまるで金魚のようだな、とフレームを手直ししている手元ではなくその目元を眺めていた赤葦の左目が、瞬きをした拍子にちくりと異物感を感じて浅く眉根が寄る。
「あ、」
「どしたー」
「いえ。目に、ゴミが」
「そっちに流し有るからコンタクト外せば。洗浄液とか備品使っていいし。ケースは?」
「持ってます」
 部活後で荷物の多いバッグの中からコンタクトケースを探し出し、黒尾の指差す先にある洗面台へと歩く間も、ごろごろと瞬きをする度に、異物感は消えるどころか強くなるばかりで赤葦の眉間の皺が深くなってゆく。ハンドソープで手を洗い、左目のコンタクトを外して洗浄液で洗って、もう一度付け直してみるが異物感は消えない。瞬きを繰り返しても同様で、いっそ水道水で目を洗うか、と蛇口とカランを見下ろしていた赤葦の背後から、工具の音に混ざって黒尾の声が聞こえて来る。
「取れたかー」
「コンタクトは取れました」
「コンタクトは?」
「黒尾さん、目薬って持ってませんか」
「悪い、無いわ」
 期待する間もない即答に、赤葦は密かに息を吐き出した。作業を中断して様子を見に来たのか、固い靴音が聞こえる。コンタクトをケースに一度仕舞い、カランを捻って水を出した赤葦の背後からぬっと手が伸びて来たかと思えば、深爪気味の指に顎を掴まれ、肩越しに振り返る様に赤葦は半身を捻った。水は流しっぱなしだし、何より両手が濡れたままで指先からはほつほつと水が落ちているような状態だ。
「あの、」
 鼻先が触れそうなくらい近いところに黒尾の顔があって、思わず視線がふらりと泳ぎそうになる。それを許さず、すかさず嗜める声。近い距離だからか声量を絞り潜められているが、それが逆にむず痒い。
「目、反らすな。こっち見といて。右目?」
「……左目です」
 むに、と親指の先が下瞼を押し下げる。黒尾が見ているのは赤葦の目であって、顔を見ている訳では無い。分かっていても近過ぎてピントは合わないし、何処を見て良いものか、正直目の遣り場に困る。目蓋を閉じる訳にもゆかぬし、早く終わればいいと思いながら、目を反らしたくなる衝動を堪え濡れたままの手で洗面ボウルの縁を掴むと、指先が落ち着かなげに冷たい人工大理石の上に爪を立てる。
「なんも無いな」
「腰が痛くなってきたのでもういいですか」
「もうちょい、」
 半端に後ろを振り返っているのも中々辛い。目を反らすな、と言われた手前、我慢はしていたがせめて今も流れたままの水を止めてしまいたい。ふいと、目線を下げた後。鼻先に嗅ぎ慣れぬ匂い。黒尾の髪の匂いだと気付いた時にはもう、唇を塞がれていた。柔く食む様に重なる唇の柔さに赤葦の身体が強張る。息すら止めて、唇を引き結ぶとそれに気付いた黒尾が喉を鳴らして笑った。
「赤葦、口あけて」
 唇の動きが伝わるくらいの距離で、ね、と強請る様に甘ったるい声が聞こえても、赤葦は応じない。焦れた様子も無く、舌先が下唇の縁をゆっくりとなぞる。それでも頑なな赤葦の態度に顎を掴んでいた手が剥がれて、喉仏の横を滑り降り、ゆるんだ制服のシャツの襟元を掻き分けて鎖骨のおうとつに固い爪が触れた。焦れったい位にのろのろと、陰影の濃い窪みをくすぐられると首裏から背中からぶわりと肌が粟立つ。息をする為に唇が緩んだのを、見逃しては貰えず舌先が唇の内側へ差し込まれて、赤葦は堪えきれずに目蓋を伏せた。
 唇のあわいの、皮膚の薄い粘膜や、上顎を舐められるとぞわぞわと痺れるように背骨が疼く。剥き出しの神経を直接指で触られているのかと錯覚しそうになる位、口の中を舐められる度に舌のぬるついた感触や熱がまざと残って消えない。声も無く胸を喘がせて、首を捩った、途端。洗面ボウルを掴んでいた指先が滑って、身体が傾ぐ。
「……あぶね、」
 鏡にぶつけぬ様にと、手の平で頭を支えられる。離れた途端、濡れたままの唇がひやりと冷えて、なのに火傷でもしたように舌の感触が熱を引き摺って生々しく残るのを、浅く噛んでやり過ごしながら切れ切れに息を吐く赤葦の視界は潤んでしまって、はっきりとしない。一度離れた唇が頬を啄むように口付けて、そのまま目元へ。睫毛の生え際、下目蓋の縁をなぞる様に濡れた舌に舐められ、睫毛やゴミなんかとは比較にならない、眼球を這うぬるついた感触と温度にぞわりと首を竦めた赤葦の眉根がきつく寄る。
「ん」
「……え?」
「取れた」
 舌先を指で弄った黒尾が、人差し指の腹を赤葦の眼前にひらつかせる。短い睫毛がくっついているのを、凝視した赤葦の胡乱外な眼差しに黒尾は取り合わずに身体を離すと、流したままだった水で指先を洗い、キュ、とカランを閉めて飾り棚へと手を伸ばす。
「疑う前に、目の調子は?まだ痛いの」
「痛くはないですけど。…今度は別の違和感が消えません」
「文句言うなよ。ほら目薬。使い掛けだけど」
「……さっき、無いって言ってませんでしたっけ」
「客に出せる目薬は無いな」
「俺は客じゃないんですか」
「客にこんなことしねえだろ」
 屁理屈だ。それも、子供の様な。使うの使わないのどっち、とちらつかせるように目薬を揺らす手から、小さな点眼薬を奪い取って、赤葦は捻っていた上体を元に戻し、鏡へと向き直る。一度、濡れて束になった睫毛を指の節でこすり、それから点眼薬のキャップを外す。
「二枚舌」
「確かめてみる?」
 顔を上向ける直前、鏡越しに唇を吊り上げてにやついた笑みを浮かべる黒尾の顔を爪で弾く。濡れた指先から水滴が飛んでその笑みがぐんにゃりと歪んだ。

黒尾眼鏡店 グルーミング

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