蝉の鳴声の代わりに夜虫が鳴き始めると、日暮れと共に気温が下がって大分過ごし易くなる。ただそれも、目一杯に身体を動かしていれば別だ。汗が伝う肌は発熱した様に熱いし、酸素を欲しがる心臓の音や息を吸う音がうるさい。真夏の夜の、蒸した空気ほど息苦しさを感じないのがせめてもの救いだが、それだけでは上がった体温はすぐには戻らず、米神から顎先へ滴る汗をTシャツの袖で拭う赤葦の視界が、前触れも無く翳る。ばさり、と衣擦れの音と、手の平が頭の上で柔く跳ねる感触。
「きゅーけーにしようぜー。あっちぃ!干涸びる!」
「ありがとうございます、木兎さん」
 頭に被せられたジャージに袖を通しながら礼を言うと木兎は離れ際にもう一度頭を撫でて、スクイズボトルを取りに歩き出す。並び立つ様にTシャツの袖を捲り上げていた黒尾も、手の平で首元を扇ぎながら木兎の後を追う。
「干涸びるつうか蒸し焼きつうか」
「ヤメロ腹減る!」
「なに想像したんだよ」
「なんか肉っぽいのを焼いたやつ。あ、焼き鳥?」
「焼き木兎か…」
「やめてくんない」
 膝を折ってしゃがみながら焼き鳥食いてぇなあ、と呟く黒尾の視線がにやにやと細められる。その不穏さに、スポーツドリンクをぎこちなく音立てて飲み込んだ木兎が半眼で眺めながらじりじりと距離を取る様に後退りした。
「やばい、黒尾に食われる…。毟られる…!あかあしぃー!」
「駄目ですよ、黒尾さん」
「あれ、珍しい。赤葦ノってきたじゃん」
「木兎さんは肉食なので味の保証が出来ません」
「アレそっち!?」
「しょうがねぇ。木兎が駄目なら赤葦で」
「すみません、意味が分かりません」
 何言ってるんですかアンタ。そう言わんばかりの赤葦の声を右から左へ聞き流し、都合の悪い事は綺麗に聞き流す黒尾の視線がサポーターをずらした赤葦の足へと落ちる。まじまじと値踏みする様な視線に、何だ何だと木兎も便乗して来た。
「なんか前よりか筋肉ついてね?」
「あ、俺も触りたい」
「ちょっと、」
 赤と白のスクイズボトルを二本、押し付けられて受け取ってしまった後に両手が塞がった事に気付いて赤葦は渋い顔になるが、そんなのは知った事かとばかり、しゃがんだまま移動した主将二人はそれぞれ腕を伸ばして、汗の引き始めた皮膚の下に張りつめた筋肉を確かめる様にべたべたと触る。鷲掴む、というのがぴったりな木兎の、固い指腹に膝裏や脛を触られるのは兎も角として。
「言い難いんですけど、……黒尾さん」
「んー?」
「手付きが痴漢みたいです」
「ぶっは!」
 堪える気も無い木兎の笑い声に、片眉を跳ね上げた黒尾はついさっきまで木兎が触っていた赤葦の太腿の内側を指差した。マッサージでもしたように赤くなっている箇所の中で、三日月のような痕が点々と散っている。
「お前こそ、大事なセッターの足に傷つけんなよ」
「んぁ?あー、爪の痕かこれ。悪ぃ、あかあし」
 指摘されて初めて気付いたとばかり、まじまじと爪の痕を見詰めた後、痛い?と伺う様に見上げて来る視線に、赤葦はゆるりと首を振った。そもそも木兎の爪は深く整えられているし、痕と言っても数十分もすれば消える様な些細なものだ。赤葦の反応にほっとしたのか、眉尻を下げた木兎がもう一度爪の痕を見て、それから薄らと消え掛けのそれに重ねる様に、指を這わせて浅く爪を立てる。爪の痕どころか、指の痕が残りそうな力に、今度は赤葦の眉がうそりと潜められた。
「木兎さん、」
「ん。ごめんな」
 もうしない。両手を下ろした木兎の視線がうろと彷徨って、少し離れた所で休んでいた月島でぴたりと止まる。スクイズボトルの飲み口を銜えていた月島の目が、苦く眇められるがそんな表情の機微を木兎は無視した。立ち上がってシューズの底を鳴らしながら、身軽な足取りで月島の元へと歩み寄る木兎の後を追う様に黒尾も着いて来る。
「へいへい、ツッキー!ちっとは太ったかー?肉食えよ、肉」
「食べてますけど。そんな短期間で筋肉ついたりなんて、しませんよ」
「肉ばっか食ってるとスパイク馬鹿みたいになんぞ、気ィつけろー」
「…気にしないで良いよ」
 月島を構おうとする主将二人の後ろから、月島へと声を掛ける赤葦を月島がちらりと見遣って来る。この二人どうにかして下さい、という切実なヘルプサインを汲み取った赤葦だが、生憎と両手はスクイズボトルで塞がっている。
「ツッキーまじでひょろっひょろだな」
 しげしげと月島の足を見下ろした木兎が、犬猫でも撫でるような気軽さで手を伸ばす。その指が太腿に届く前に、黒尾の手が木兎の手の甲を叩いた。ぺしり、と皮膚がぶつかる軽い音が鳴って、木兎と黒尾は無言の侭顔を見合わせる。今度は対の手を月島へと伸ばすが、それもまた叩き落とされて木兎の片目が細くなった。三度目は両手を伸ばし、両手とも手首を掴まれてお互いがお互いの手を押し遣る様にぐぐ、と力比べめいて腕の筋肉が緊張する。
「邪魔しないでくんね?」
「どうしようかなー」
 両手を組んで押し合う二人の横をすり抜けて、赤葦が月島の元へとやって来る。月島と、それから睨み合う黒尾と木兎の足をそれぞれ順繰りに見詰めていれば、月島がこちらを見ているのに気付いて赤葦が顔を上げた。どうしたの、と首を傾げてみせれば、痛く無いんですかと指を指される。太腿の、赤い痕だ。
「猫に引っ掻かれるよりかは痛く無いよ」
「赤葦さんて、色白いですよね」
「月島も日焼け、しないよね。赤くなって終わりそう」
 ペナルティで夏の炎天下を走っていたというのに、日焼けの名残も何も残っていない白い足。互いの足を観察する様に眺めていれば、背後で体育館の扉が開いてそばかすの浮いたマネージャーがひょっこりと顔を出した。中に居る四人を見て、呆れた様に肩を竦め口元に手の平を寄せる。
「まだやってんの。そろそろ食堂閉まるよ」
「はい。有り難う御座居ます」
 会釈を返して、さてどう収拾をつけたものかと赤葦は未だに力比べをしている主将コンビへ視線を移した。単純な力押しであれば木兎が勝つだろうが、何か仕掛けてきそうな黒尾に押すに押せず拮抗しているのだろう。手の甲に血管を浮かせぎりぎりぎりぎりと睨み合う二人はすっかりと、当初の目的がすっぽ抜けているらしい。その二人の傍へと歩み寄ると、徐に赤葦は手に持っていたスクイズボトルをそれぞれの頭の上に乗せた。
「二人とも、決着がついたら飯食いに来て下さい」
「ちょっと!?赤葦何乗せてんの!」
「あ、ボトルの蓋、ちょっと緩んでるんで。落とすと片付け大変だと思います」
「お前、実はさっき触られたの怒ってんだろ」
「怒ってません。……月島、行こう」
 頭の上にボトルを乗せ、今度は別の意味で睨み合う二人を尻目に月島を手招いて歩き出す。呻き声を上げながら動くに動けない木兎と黒尾を見比べてから後を追う月島は、汗で鼻先へ滑って来た眼鏡を押し上げながら赤葦の隣へと並び立つ。
「ボトル、緩んだりなんてしてないじゃないですか」
「うん。嘘だからね」
「…赤葦さんて案外、意地が悪いですよね」
「多分、すぐ追いかけて来ると思うよ。だから放っておいて平気。それより」
 歩きながら、横目に月島を見上げて素知らぬ顔で赤葦は嘯く。
「野菜、ちゃんと食べないと。肉と魚だけだと、ああなるよ」
 ああ、という言葉に文字が指し示す人物なんて想像するまでもない。そうします、と存外素直に頷いた月島に、良い子、と笑って赤葦は食堂へと向かう。きっと喧しく騒ぎながらあの二人もそう掛からずやって来る事だろうから、四人分の食事を用意しておかなければならない。

秋の夜長の第三体育館

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