錠の開く音に、うつらうつらと微睡んでいた意識が覚める。閉じていた目蓋を開き、引き摺る眠気にしょぼつかせながら枕元に置いていた携帯を手繰り寄せて時間を確かめる。AM2:00。朝帰りと言うには少しばかり夜の気配が強い時間、帰宅した同居人は静かな物音を残してバスルームへと直行したらしい。人の居る音や気配や、そんなものが少しだけ遠退く。
 月島と黒尾は都内の大学に通っている。高校を卒業し、上京するという月島の進学先が自分と同じ大学だと聞いた時に、ルームシェアを持ち掛けたのは黒尾の方だった。元々シェアしていた相手が恋人と暮らす事になり、余った部屋と一人で賄うには少々出費の痛い家賃をどうしたものかと持て余していたのだが、物は試しにと誘ってみればたっぷり数分黙り込んだ後に諾の返事が携帯のスピーカー越しに聞こえて、思わずディスプレイの表示された通話相手を確かめてしまったのは秘密だ。出費を押さえたい、というのはお互い同じ考えだったらしい。見事に利害が一致して、春から同じ部屋に暮らし始めて気付いた事が幾つか。ショートケーキが好きな事。音楽の好み。読んでる本のタイトル。意外と料理が得意。それから、案外ペース配分が下手だという事。

 腹這いに寝そべっていた身体を起こして、ベッドから降りると黒尾は暗がりの中、明かりも点けぬまま部屋を出た黒尾は、橙色の灯りが零れるバスルームへと歩く。込み上げる欠伸を噛殺しながら、石鹸の匂いと湯気のうっすらと漏れる薄く開いた扉を開いてみれば、毎日きちんと磨いている木目の美しい床の上。毛足の長いバスマットを下敷きにしてバスタオルの塊が落ちている。ぴくりとも動かない塊を包んでいるふかふかのバスタオルの端っこを摘んで持上げると、綺麗に色の抜けた金髪がちらりと覗いた。
「生きてるかー、ツッキー」
 反応無し。脱衣籠の傍に誂えたラックから、最近新調したばかりのドライヤーを取り出してしゃがみ込むと、恐らくは背中だろう箇所に手の平を乗せて、ゆさゆさ揺らしてみる。すると今度は物言わぬまま、亀の様な動きで反応が返った。床の上に手をつき、のろのろと身体を起こした月島の頭はぐらぐらと揺れていて、ネジを一本抜いたらあっという間に分解してしまいそうな、そんな危うさだ。後ろにバランスを崩す前にと、バスタオル毎引っ掴んで抱き寄せて肩口に額を寄せる様にして支える。濡れた髪からは黒尾が使っているシャンプーと同じ匂いがした。ほつほつと水気を残したままの髪がTシャツの肩口を濡らして行くが頓着せず、黒尾はドライヤーで月島の髪を乾かし始める。音の静かな所が気に入って買ったのだが、期待通り月島は起きる様子も無く凭れたままだ。

 大学に入って直ぐ、月島の生活は中々に慌ただしいようで、一変した身を置く環境に表面上は常通りの素知らぬ顔を貫き通しているが、それが家の中までは取り繕えず時々電源が落ちる様にこうして潰れる。それまでは自室で死んだ様に眠っているだけだったが、大学とマンションの丁度通学途中半ばにある、バールでバイトを始めてからは体力的にもあまり余裕が無いのか、最初は玄関で。その次はバスルームの湯船の中。溺死したら洒落にならんと、寝惚けた月島に懇々と言い聞かせた結果、今回はどうにか風呂から上がる所までは来たがそこで落ちたらしい。煙草や珈琲、香水の匂い、外で纏って来た匂いは全て洗い流して、ただただ石鹸の柔らかい匂いだけを残した月島の髪を黒尾が乾かしてやるのは、こうして寝潰れている時だけだ。恩着せがましく言うつもりも無いし、もし月島から何か言われたら、と思っているのだがどうやら月島は寝潰れているときの記憶が曖昧な様で、こうして黒尾が世話を焼いている事を覚えていない。覚えていないのならば言わずとも構わんだろうと、黒尾は月島を甘やかしている。ほんの少しの下心混じりで。
「ほれ、ベッド行くぞ。担いで行けねえし頼むぜ。起きろー」
 耳元をくすぐるみたいに声を掛けながら、ドライヤーを片付ける。ツッキー、と呼んでも少しばかり身動ぎするだけで動こうとしないのを暫く眺めていた黒尾は、耳朶を齧る様に唇をぴたりと寄せて、ふ、と息を吹き掛けた。
「……蛍。起きて」
 首元で唸り声。疲労困憊の末に泥の様な睡魔の直中だろうと、不機嫌も露なその反応にくつくつと喉を鳴らして笑う黒尾の、首筋にごつ、と月島の頭がぶつかった。頭突きにしてはなんともかろいそれに、良し良し、と頭を撫でてやって、腕を引いて立たせる。洗面台の脇に置かれていた黒縁の眼鏡拾い、舟を漕ぐ様にふらつく身体を時折支えながら、さて今日はどっちの部屋で寝るつもりなのかと、足取りを見遣る視線に気付かぬ侭、のろのろと月島は半端に扉の開いたままの黒尾の部屋へと入ってゆき、躊躇する事無くベッドの中にぼすん、と沈み込んだ。床の上とは違い、柔らかいベッドの感触と、黒尾の体温が残っていて居心地が良いのか、さっきまで黒尾が寝ていた壁際の、布団の中へと潜って行く月島を追いかけて黒尾もベッドに膝で乗り上がる。タオルを中途半端に被って丸くなる月島を、抱きかかえる様に腕を回しながら添い寝する様に寝転ぶと、微睡んでいたときの眠気が戻って来て、くわりと黒尾は欠伸を噛殺す事無く、のんびりと零して目蓋を閉じた。

 目が覚めた瞬間、圧迫感に息苦しさを覚えて月島は眉を顰めた。霞む視界を瞬きを繰り返してピントを合わせながら、ろくに動かない首の代わりに視線だけ動かすと、裸の胸の当たりに艶のある黒髪の毛先があたる感触と、呼吸音。がっしと回された腕に胴体を締め上がられていて、べったりと密着した身体は寝返りを打てなかった所為かやけに怠い。
「くっそ……重い…。黒尾さん、ちょっと。起きて」
 状況を確認した月島は自由に動く手首から先、器用だと評される事の多い指で黒尾の腹を摘んで引っ張ろうとしたが、柔らかく張りつめた筋肉に覆われ、締まった腹に摘むだけの余りなんてある訳も無く。迷わず拳を握ると、それを腹へと叩き込んだ。
「いッ…!、てぇ…あー、何。なんなの…朝から酷くない?」
「おはようございます重いし暑苦しいんで離れて下さい」
「……朝から滑舌いーね、ツッキー…」
 ふやふやと生欠伸を零しながら、黒尾の腕が緩む。胸元で喋られる度に呼気が肌にぶつかってむずがゆいのを堪え、月島は眼鏡を探して腕を伸ばしたが、それを追い越して、持ち上がった黒尾の手が黒縁の眼鏡を拾い上げ手渡してくる。受け取り、眼鏡をかけて、ようやくクリアになった視界の中、眠た気に目を瞬かせている黒尾の顔を見遣り、それから、部屋の中をぐるりと見渡して、月島は思わず舌打ちを零した。疲れがピークに達すると部屋を間違えて転がり込む事が何度かあって、その度に次は無いと思っているというのに、また、やってしまった。
「ツッキー、行儀悪いぞ」
「すみません。また、寝惚けたみたいで」
「ああ、……うん。そーね」
 寝惚けてたねえ、と緩んだだけで離れようとしない手が、裸の背中のまんなか、脊椎のおうとつをなぞるようにつつ、と撫で上げた。それにぞわりと鳥肌を立てて月島は腕を払い落とし、ベッドから出ようとして今更のように全裸なのに気付いて渋面を浮かべ、くしゃくしゃになったバスタオルを布団の中から引っ張り出して腰に巻き付け、今度こそベッドから這い出す。
「今度は寝惚けてない時においで」
「御免被ります」
 肩甲骨と脊椎の陰影が美しい、バランス良く肉の乗った背中をベッドの中から見送りながら、唆す黒尾の声をぴしゃりと撥ね除けて、月島は自分の部屋へと戻って行く。さて次はいつ寝潰れる事やらと、黒尾は機嫌良く二度寝をするべく枕に顔を埋めた。

バスルームの秘め事

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