梟谷学園は夏休みの間も学内を開放しており、希望者を募っての夏期講習がそこここの教室で行われている。もちろんそれだけではなく、普段部活に勤しみ学業に割く時間が他の生徒に比べ少ないであろう、一部の生徒への慈悲を体現したかの様な補習も含まれている。強豪と名高いバレー部であっても、学生の本業は勉学である、という訳で、講習、或いは補習の日は部活は半ば休みの様な状態だ。二年の教室が並ぶフロアで、隣のクラスにて開催された夏期講習文系コースに参加していた赤葦は、参考書とノートに埋もれたスマホのLEDランプが音もなく点滅したのに気付いて、シャーペンを持つ手を止めた。指先にペンを挟んだまま、人差し指で通知ウィンドウをタップすると、泣き顔のスタンプの後に、木兎からのヘルプコールが並んでいる。ただ簡潔に一言、「死にそう!」とだけ表示された文字の、本来の意味とは掛け離れた現状を想像するのは容易く、諦観の溜め息を零しながら赤葦は返事を打って、板書に戻った。

「赤葦ヤバイ!俺死ぬかも!」
 校門の傍に在る噴水の縁石に座り頭を抱えていた夏服姿の木兎が、赤葦に気付いた途端の、開口一番に発せられた台詞に、はあ、と赤葦は気の無い返事をする。死にそう、から、死ぬかも、と文面とは微妙に変化した言葉にきっと意味は無いのだろう。
「補習でプリントでも追加されましたか」
「違くって!マジで!ヤバイの!」
 片手を口元に添えて、ちょいちょい、と指先で手招く仕草に、誰かに聞かれては拙いような話なのかと、赤葦は木兎の元へと歩み寄り、耳を寄せた。
「夏休みの課題が増えた…!」
 潜める、というには若干勢いの良過ぎる声に、首を傾がせ逃げたくなるのを堪える。引き際を謝ったか、シャツの首元に緩く結われたタイの先を木兎の指がついと引っ張り、完全に逃げ場が無くなってしまった赤葦は言われた言葉を反芻する。夏休みの。課題。そこまでは分かるが増えたというのが引っ掛かる。
「何か余計な事でも言いました?」
「あかーし、俺の事どう思ってんの!?」
「頼りになるエースだと思ってます」
「マジか!ヤベェ!」
 ぎゃっ、と声を上げて目を輝かせた直後に、そうじゃねえ!と我に返る一連の流れに付き合わず、赤葦は双眸を伏せて思案する。が、今まで長期休みの課題が後から増えた事なぞ、ついぞ経験した事が無い。
「結局、どういう事なんです?」
「うん。休み前に配られた範囲を勘違いしてた」
「…木兎さん。自業自得って知ってますか」
 増えた、のではなく、元有ったものを見誤ったと言う事かと、腑に落ちた赤葦が物言わずにただ溜め息を零す。エースとしての木兎は頼りになるとの言葉に二言は無いが、先輩としての木兎には若干の不安と徒労がついて離れず、しかしそれすらも慣れ始めているというのが救えない。
「なー頼むよー。あかーしも手伝ってくんね?」
「……も?」
「うん。もう一人、助っ人呼んどいた」
「助っ人、ですか」

「遅ぇよ、木兎。罰としてカフェラテのMサイズな」
 木兎曰くの助っ人は、ファーストフードの二階席、壁沿いのボックス席で頬杖をつきながら木兎と赤葦の顔を見るなりそう言い放った。案の定、というよりは、半ば予想通り。梟谷バレー部では、こと勉学において木兎を甘やかすべからず、とマネジが言い放ってからというもの、課題に関して教えあう事はあっても手伝う事はしていない。恐らくは他校、それも課題を手伝えと強請れるくらいの仲となれば選択肢なぞ殆ど無い。音駒高校の夏服を着込んだ黒尾へ、どうも、と会釈をしながら赤葦は横目に木兎を見遣る。出会い頭の奢れ発言に、反論しようとして、けれど今日は下手に出るべきかと片眉だけを跳ね上げた木兎が、諦め悪く渋る。
「せ、せめてSサイズ…!」
「今日の気分はMなの俺」
「ドSの黒尾くんにはSサイズで十分だろぉ!?」
「たまには攻められたい日だってあるのヨ、木兎クン。つー訳で、ほれ。三分な」
「くっそ!このドS!」
 トレーをテーブルに置いて鞄を置き、財布だけを掴んだ木兎が上ったばかりの階段を逆走していくのを見送ってから、赤葦もトレーを置いて黒尾の向かいの席へと、腰を下ろした。
「休み中なのに、制服なんですね」
「受験生は色々と面倒臭ぇのよ。そっちだって似た様なもんだろ?」
「まあ、概ねは」
 ストローをドリンクのプラスティックの蓋に通しながら、部活後とは違う、首筋や目の疲れに首を捻ると小気味良く骨が鳴った。長期休みの間は、机に向かう時間よりも、ボールを追っている時間の方が長いので、じっとしている方が逆に躯が疲れてしまう気がする。ストローを銜えようとして、こちらをにやけた顔で見詰めている黒尾に気付き赤葦の手が止まる。
「どうかしましたか」
「制服着てるの、あんま見慣れねえなって」
「ああ。ジャージの方が見慣れてますからね。お互い」
「―――お待たせ!カフェラテMサイズいっちょうデリバリー、三分間に合ったか!?」
「悪ぃ、計ってなかった」
「おま、マジで何なの酷い!」
「酷く無ぇよ。愛だ、愛。ラブ。俺ぁ木兎の事信じてるからさー」
「そんな痛ぇ愛はいらねぇよー…」
 手を伸ばした黒尾へカフェラテのカップを渡し、眉尻を下げて項垂れながら木兎が赤葦の隣へと腰を下ろす。早速鞄を開き、取り出したのは参考書やクリップで留められたプリントの束だった。それを見て、黒尾も同じ様にクリアファイルの中から紙束を取り出す。
「ほら。頼まれてた世界史のレポート。木兎のレベルに合わせてひらがな多めにしといた。古文のプリントはせめて基礎問だけは自分でやっとけよ」
「えっ、俺フツーにやっちゃった。これ数学と物理」
 平然と互いの課題を交換し合う二人を、アイスコーヒーを啜りながら眺めていた赤葦はぼそりと呟いた。
「割れ鍋に綴じ蓋ですね」
「何それ、どっちがどっち?」
「やめてくんない、赤葦。阿呆の木兎と一緒にしないで」
 助っ人、というのも頷ける。お互いの得意分野を分担して課題を終わらせようと言う作戦は確かに、賢い。が。苦手分野は苦手なままだというそもそもの問題はどうなるのだろうと、眺める赤葦の眼前に突き出されたのは、英語の参考書。同じ様に、黒尾の前には1冊の文庫本とレポート用紙の綴り。
「と、言う訳で。力を合わせて打倒!夏休みの宿題!」
「………はぁ」
「まだあんのかよ」

 顔を突き合わせながら、木兎の課題に付き合い、途中で腹が減ったと追加で注文をしに行ったりとしていれば時間が過ぎるのはあっという間だった。ふと顔を上げて見遣った先、磨かれた窓の向こうが暮れ泥んでいる。
「そろそろ、終わりにしませんか。長居もしてますし」
 振り返り、テーブルに突っ伏して唸る木兎と、黙々と課題図書を読み進めている黒尾を見比べると、先ず黒尾が顔を上げて携帯で時間を確かめ、文庫本を閉じた。対する木兎は、あたまばくはつしそう、と冷たいテーブルに額をくっつけたまま動かない。
「木兎さん、帰りましょう」
「むり…俺一人じゃ終わんない…」
「また明日、部活の後に付き合いますよ」
 がば、と勢い良く身体を起こした木兎が嘘では無かろうな、と言わんばかりにじっと見詰めて来る。
「だから、もうちょっとだけ頑張りましょう。ね」
「赤葦ぃ……」
 扱いを心得た赤葦の言葉が全く先輩相手に使うものとは思えず、ふは、と吹き出す様に笑いながら先に黒尾が席を立つと、それに倣う様に木兎も腰を上げた。トレーを下げ台へと置き、階段を下っている途中で家へ一度連絡しようとしてポケットを探り、携帯が無い事に気付いた赤葦が先に行っていて下さい、と言い残して二階へと戻る。ボックス席のシートに転がっていたスマホを拾い、直ぐに踵を返して階段を下りて自動ドアを潜ると、日が落ちたと言うのにまだ蒸し暑い夏の夜の空気に、じわりと汗が浮く。
 店先に居るであろう、二人の姿を探す様に赤葦の視線がふわりと周囲を見渡して、直ぐさまに見知った後ろ姿に目を止める。声を掛けようとして、開いた唇は声を紡がずそのまま柔く閉じた。ついさっきまで、仕様も無い話をしていた所為で考えもしなかったが、バレーをしていなくても、あの二人は兎に角、人目を惹く。夕方の、人出の多い雑踏の中でもすぐに目が止まる、平均身長を超える上背に、貧弱とは言い難い、バランス良く筋肉ののった体躯に伸びやかな四肢。ユニフォームを着て、コートの中に立った時の否応なく煽られる感覚を思い出して、うなじの裏がちりり、と痺れるような感覚に、赤葦は浅く息を吐き出した。天、二物与えず。それ位の方が、バランスが取れているのかも知れない。

紅は園生に植えても隠れなし

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