肘まで捲り上げた白い長袖シャツ、ブラックスキニーとショートブーツに、黒いサロン。地下にあるスタッフルーム兼用のパーティールームで、着替え終わった黒尾を、上から下までまじまじと眺めた赤葦は感心した様に呟いた。
「似合いますね、黒尾さん」
「そらドーモ」
 借り物のシャツは袖の長さが足りないので、仕方なく捲り上げたが腕を動かしてみて下がって来ないかを確かめる。それから、履き替えたブーツのソールの感触を確かめる様に、数歩、うろりと歩いてみてから、うん、とひとつ頷いた。若干、肩回りがきつい気がするがまあ許容範囲内だろう。赤葦から渡されたボールペンをシャツの胸ポケットに差し入れながら、足下に纏わりつくロングサロンに違和感を感じつつも、テーブルの上に広げられたメニューを見下ろし、写真と商品名を流し読むが、一度に全てを覚えるのは到底無理な話だ。それは赤葦も理解していて、特に注文の多いものだけを幾つか選んでゆく指先を追う様に、写真と品名一致させるべく小さく口の中で反芻するよに呟きながら頭へ叩き込む。
「基本的にうちの客層は年配の方が多いです。何か言われたとしても」
 メニューを閉じながら、赤葦が黒尾を見遣る。気遣わし気にも、面白がる様にも見える視線が、日差しに目を細めるように微かに細くなった。
「最終的には笑っておけばどうにかなります」
「ぶっちゃけたね?赤葦」
「口八丁でどうにか切り抜けて下さい。フォローは、します」
「あいよ」
 首を竦めて、緊張した様子も無く頷いた黒尾の表情をじ、と見詰めた後、赤葦が先に立って歩き出す。階段を上り、上のフロアに出たら、もう黒尾は客ではなく、従業員だ。自営業、かつ、接客業で、専門業でもある家業を手伝う事はあれども、飲食店で働く経験なぞ、欠片も無い。不安は無いが、若干の緊張と、後は、他校の副主将でもなく、友人の後輩でもない、同僚という立場を面白がる気持ちに高揚して唇がにやついてしまうのを隠すのが、少しばかり手強そうだ。至ってのんのんとした黒尾の様子に、寧ろ赤葦の方が胡乱外な視線を投げて来るが、生憎と詐欺師だなんだと言われるのにも胡散臭気な視線にもすっかりと慣れてしまっている。

 事の発端は、練習試合も部活も無い休日。先日に仕立てた老眼鏡の調子はどうかと、珈琲を飲むついでに伺いに来ただけだったのだ。客としてカウンター席へ招かれ、同じく部活が休みで家業に駆り出されていた赤葦の、手ずからたててくれた珈琲が満ちた白い陶器のカップを手にして渋い顔をしながら、ちら、と赤葦の顔を盗み見て、
「……マンデリン?」
「今日はグァテマラです」
 なんて、飲み比べをしていられる程度には客足も落ち着いていて、カウンター越しにクロスでシルバーを磨く赤葦と会話をしている余裕すらあったのだが、それが一変したのは一本の電話が鳴り響いてからだった。控えめなコール音はすぐに途切れ、キッチンで誰かが取ったのだろうな、と思っていたら、京治、と父親に呼ばれた赤葦が会釈をしてカウンターを離れて、数分。カップの中身が、半分よりももう少しだけ嵩を減らした頃に戻って来たかと思えば、真っ直ぐに黒尾を見詰めて、こう言ったのだ。
「黒尾さん、この後予定ってありますか」
「んや、特には。何。デートでもしてくれんの?」
「はあ、まあ、お望みならそれでも構いませんけど。バイトしませんか?」
「んー。……んン?」
 今赤葦は何と言ったのか。もういっぺん言ってくれる?とカップを持った手が行き場を無くして中途半端に浮いたまま、黒尾は赤葦の口元を凝視した。一言一句違わず、リクエスト通りに同じ言葉を繰り返す赤葦の目は、いつになく真剣だ。
「バイトしませんか、うちで。この後シフトに入る予定だった方が二人とも、人身事故で足止めされてるらしくて」
「ああ、あー…。なんだ。吃驚した」
「その方が来るまで、で構わないんです。もちろん、給料も出しますよ」
 やけに切羽詰まった様にも見える頼み事に、何かあるのかと、問うてみたら間の悪い事に、夕方から予約が二つ、それもそこそこ大人数で入っているらしい。キッチンは兎も角、フロアを予約客と通常の客とをさばきながら回すのは一人では難しいだろう。素人紛いな黒尾が一人入った所で、大した宛にはなるまいよとも思うが、どうやら言葉その侭、まさに猫の手も借りたい程、という状況らしい。理由が理由で、しかも給与までついてくるのであれば悪い気はしない。が。どうせならばと、黒尾の唇が笑みに吊り上がるのを見て、赤葦の視線が細く眇められた。
「デートは?」
「………、デートも。つけます」

 溜め息混じりに頷いた後、デートて。とぼやく赤葦の気が変わらぬうちにと、黒尾はスツールから立ち上がると制服を借り、それに着替えて出直した。オーダー表の綴りを一束、サロンのポケットに入れて、出迎えから席への誘導、オーダーを取ってからそれを給仕するまでの流れを大まかに聞き、物は試しでと実地で数度、オーダーを取ったり下げ物を下げたりと実際にフロアの中を歩いてみると、これが難しい。目を配らなければならないポイントが幾つもあって、しかもそれは全てペースが違う。ミントの浮かんだ冷えたレモン水のピッチャーを持って、空になりそうなグラスにおかわりを注いで行くのも中々に骨が折れる。同じ立ち仕事でも、業種が違うと此処まで変わるのか、と、黒尾は半ば職場体験のような気分でテーブルの間を歩いていたが、カウンターの内側でドリンクを用意している赤葦を見遣れば、はつりと、目があった。偶々、では無くて、恐らくは黒尾の様子を気に掛けていたのだろう。絡んだ視線を剥がさず、小さく首を傾げて笑って見せると、一瞬、目を見開いて、それからほどけるように赤葦が笑う。
 夏空が暮れ泥み、夕暮れ時も幾らか過ぎた頃。来店した件の予約客、というのが見事に女性ばかりで、席が埋まると同時に華やかな笑い声で満ちた店内に気圧されぬ様、笑って誤魔化せとばかりに多少のぎこちなさを口先だけで凌いでいたが、注文を、と呼ばれて足を運んだテーブルの、女性客が首を反らして黒尾の上背を見遣って来るのに、嗚呼、と黒尾は迷いもせずに膝をついて、屈んでからオーダー表を取り出す。
「ご注文をお伺いします」
「あなた、随分と背が高いのねえ。いつも見ない方だけれど、新しいバイトさん?」
「配慮が足りず失礼致しました。期間限定で、雇って頂いています。……ご注文は、」
 にこにこと、朗らかに話し掛けられれば悪い気はしない。悪い気はしないが、注文が決まったから呼ばれたのかと思いや、どれにしようか悩むわねえ、なんてのんびりと笑い合っている様子に、時間が掛かりそうだなと笑顔の侭で黒尾の顔が固まる。背後で、すみません、と呼ぶ別の声に、只今お伺い致します、と顔を上げて返事をしながら、メニューを覗き込んでこれなんてどうかしら、と悩む、細い指先と鮮やかなネイルに、じりじりと焦れる様な心地を味わう黒尾の背後から、グレーのシャツに包まれた腕がするり、と伸びてメニューを捲った。骨張っていて、爪も深く丁寧に揃えられた、細くは無いが長い指がメニューの写真をなぞるように指先で示してゆく。
「本日のお薦めはキャラメルシフォンケーキと、珈琲はハワイコナ。お食事でしたらこちらのプレートが、野菜も多いのでお薦めですよ」
「あら、良いわねえ。美味しそう」
 一人が決まれば、後は早い。私も同じものを、と言われて数を確認してからオーダー表へとペンを走らせ、畏まりました、と笑顔を添えて立ち上がり一礼する。後ろを振り返れば赤葦はもう別の席のオーダーを取りに行っているところで、声をかけるには少しばかり距離が遠い。オーダー表をキッチンに出し、戻って来た赤葦へドリンクを伝え、さっきの御礼を言おうとした、ところで。また客席から呼ばれ、慌ただしく、けれど足取りは静かに音を立てぬ様にテーブルへと向かう黒尾の背中を見遣り、赤葦はドリッパーの準備を始める。

 そうして、二人でホールを切盛りしてから二時間程経った頃。ようやく到着したスタッフと入れ替わる様に引き継いで、首の骨を鳴らしストレッチする黒尾の背中を、赤葦の手の平がとんと柔く叩いた。
「お疲れ様です。先に、着替えていて下さい」
「あれ、赤葦は未だ上がりじゃねぇの」
「買い出しにだけ行ってきます。それが終われば、俺も上がりますよ」
「ふぅん…」
 手に財布と、それから買い出しの指示が書かれたメモ用紙を持った赤葦の手元を眺め、黒尾はぼんやりと返事をした後に財布を持たぬ方の手を捕まえて、軽く引いた。
「俺も行くわ。荷物持ち、要るだろ?」
 そこまで買い込みませんよ、と微かに笑う声に、いいからいいからと腕を引いて、カウベルを鳴らし扉を開く。空調で一定の温度に保たれていた店の中と違って、湿度の高い夜気はべたりと張り付く様に重い。買い出し先を知らぬので、赤葦が半歩先に歩き、その後ろを黒尾が歩く。すっかり夜の帳が降りていても、サロンを巻いたままの格好は往来の人目を惹いた。しかもそれが、背の高い若い男の二人組なら尚更である。
「さっきさ、」
「はい?」
「助けてくれたろ。注文決まらなかった時」
「ああ。良くある事ですから。寧ろ、初めてであそこまで動けるのは流石ですね」
 どうかお気になさらず。何でも無い事の様に、助け舟を出した赤葦から率直な褒め言葉が零れたので、思わず黒尾は街灯に照らされる横顔を見詰めた。手首の骨の上を掴んだままだった手を滑らせて、指先を柔く握る。振り払われるかと思いや、指先が少しだけ緩んでやんわりと絡み、重ね合わせる様に手の平もぴたりと肌が触れる。半歩先を歩いていた赤葦が、少しだけペースを落として黒尾の隣に並ぶと繋いだ手を一度、見下ろして、
「少しだけ、遠回りしましょうか。デートと言うには少し、詰まらないかもしれませんけど」
 今日は有り難うございました。そう言って笑う顔を、隣で見詰めていた黒尾の顔が、破顔する様に崩れて笑う。返事をする代わりに絡めていた指先に力を籠めて、きゅ、と握り返し、ゆらんゆらん、と手遊びするよに小さく揺らした。

赤葦珈琲店 制服デート

inserted by FC2 system