「痕を、残さないんですね」
 天井に腕を伸ばし、手首や腕の内側のしろい皮膚なんかを眺めていた赤葦の声に、黒尾が振り向く。視線の先にある手の平と、節の目立つ五指はついさっきまで、舐りしゃぶって浅く歯を立てていた。薄く窪んだ皮膚の上を舐め、吸い上げる度に、堪える様に引き絞られる赤葦の眉根と、閉じきれない唇から零れる隠しきれない熱混じりの呼気を思い出して、嗚呼腹が減ったな、とぼんやり思う。腹這いに寝そべっていた身体を起こして、真っ直ぐに伸びる赤葦の手を横から浚う様に捕まえ引き寄せる。手の平をぴたりと隙間無くあわせて指先を絡めても、振りほどくどころか柔く握り返して来る赤葦の手の甲に、唇を寄せた。
「つけてほしい?」
「いいえ」
 素っ気ない程にあっさりと否定する声に、黒尾の喉が震えて息が笑う。くつくつと笑うその顔を、見上げる赤葦の目尻は未だ涙の跡がのこっていて薄らと赤い。声を噛殺し、溺れる様に喉を喘がせ、それでも涙を堪える事が出来ず、手の平で擦った跡だ。零れた涙は、黒尾の唇が飲み込んでしまった。
「痕って、さあ」
「はい」
「想像出来るじゃん。ナニしてたか、て」
 見える所でも、見えない所でも。よすがのように残るそれから、連想できるものなぞ、そうは無い。
「赤葦が、俺に触られて、どんな顔してどんな声を上げて、」
 手の甲の、薄く筋の浮いた皮膚を食む様に唇を押し付けたまま、黒尾が喋る度にこそばゆさに指先に力が篭って、すぐに弛緩する。居心地悪そうに動く手首を離せば、けれど距離は変わらず頬を撫ぜるように指先が滑る。下唇を圧し潰して阻もうとする親指に、浅く歯を立てると固い爪の感触。整えられた爪の先を、ぬるい舌でぞろりと舐る。
「どんな風に気持ちよくなってるか、想像されたくねえんだ」
「……普通に考えたら、逆でしょう。相手は、」
「それも駄目」
 赤葦の言わんとしている言葉の先を、察して言わせる事すら許さずに甘ったるい声が嗜める。唾液に濡れた親指が抜ける間際、ちゅ、と音立てて吸い上げてやる。手遊びの様に、黒尾の顔に触れては離れる赤葦の指の感触も味も、心地良くて黒尾の目蓋が伏しがちになれば、固い黒髪の合間を潜って耳朶をくすぐられた。猫をあやすような、そんな手付きで。甘やかしたがるのを、ただじっと、受け入れる。
「心が狭い男だって、笑ってもいいぜ」
「笑いやしませんけど。そんな事まで考えてるなんて、思いませんでした」
「はは」
 耳元から、首筋を辿って、うなじへ。襟足の髪に指を絡ませる指が、次に何処を辿るのか、黒尾には見当もつかない。触れる赤葦の手を好きな様にさせる代わりに、逸らしもせずに見上げて来る双眸に笑って、赤葦の顔を覗き込むと、数度瞬きをして察しのいい赤葦は目蓋を閉じた。その睫毛の生え際へ、啄む様に口付ける。襟足の髪を触っていた指は、すっかり緩んで背中へと落ち、肩甲骨のおうとつをゆるゆると撫でているのが、少しだけくすぐったい。
「嗚呼、でも。そうだな。お前がバレーを辞めたら。そん時は、端っこだけ齧らせて」
「齧る、なんて言わないで、骨まで食ってくれてもいいですよ」
「ケチ」
「どっちが」
 開いた目蓋の下の、水気の多い黒い目が笑いもせずにただただ真っ直ぐに見上げてくるものだから、可愛くない口からまずは平らげてしまおうと、黒尾は舌舐めずりをして、色の薄い唇に齧り付いた。

猫がにゃあと鳴くので、

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