時給はそこそこ、日払い、おかわり自由の賄いがついて来て、仕事上がりには日替わりメニューのドリップ珈琲を一杯。バイトとしては中々の好条件だと黒尾が気付いたのは、赤葦からのバイトをしませんかという名目のヘルプメールが届いてからだった。それに迷いも無く承諾の旨を返信して、黒尾は貴重な休日を労働に宛てがう事に決めた。家業を手伝っても小遣いは稼げるが、それよりも付加価値の高い方を選んだってきっと罰は当たらない筈だ。

「まさか二度目があるとは、思っていませんでした」
 開口一番、いらっしゃいませの一言も無くカウンターの内側で、ドアを開き、店の中へ遣って来た黒尾へ会釈をした赤葦は、表情一つ変えずにそう宣った。素っ気ないような声には、若干の疲労が滲み、顎を浅く引くと前髪が薄い目蓋の上に被さる。金色の鍵を持って地下のスタッフルームへと先導する様に歩く、背骨のラインが想像出来る様な真っ直ぐに伸びた背中を眺めながら黒尾は、不自然では無い程度の間を置いて、サロンの裾をさばき歩く赤葦へと声を掛ける。
「今日はどしたの。電車の遅延、ドタキャン。病欠とか?」
「強いて言うなら、病欠でしょうね」
「強いて言わないと?」
「サボりです」
「いいのそれ」
「良かないですよ」
 両開きの収納スペースの中の、積み重ねられた透明な衣装ケースの中からクリーニングのタグがついたグレーのシャツと皺一つないたたまれたサロンを取り出し、黒尾に手渡す赤葦の表情はちっとも憤慨している様には見えやしない。寧ろ、どうでも良いとすら言い出しかねない淡白さで、渡された制服を受け取り着替え始めた黒尾はじんわりと冷や汗をかく様な心地を味わった。これは、もしかしなくとも、結構機嫌が悪いのだろうか。
 元々、着替える手間を省こうと履いて来たブラックスキニーはそのままで、シャツに袖を通し、ボタンをとめている黒尾の隣で、赤葦はスタンドミラーの前にスツールを動かし、腰を下ろした。手に持っている小さな容器をちらと見遣った黒尾は、少しばかり目を見開いてそれを凝視した後、着替えの手を止めて赤葦の背後へと近付いた。
「めっずらし」
「ちょっと前髪が伸びてきたので、面倒ですけどまとめておかないと」
 ワックス、あんまり好きじゃないんですけどね。言いながら、癖の有る自分の髪を摘んで軽く引っ張る赤葦の手から、ワックスの容器を拝借するように黒尾の手が伸びる。蓋を開けてみれば、ふわりと果物のような仄かに甘い香りがする。
「やってやろうか。髪」
「……………」
 赤葦の視線が鏡に写る黒尾の、跳ねた毛先や目元を覆う前髪なんかを凝視してくる。あまりにも雄弁なその視線に、黒尾は音がしそうなくらい満面の笑みを浮かべてみせた。幼馴染み曰く、何か企んでいる悪い顔、という表情だ。
「赤葦、そんなに髪質も硬くねぇだろ。まあまあ、任せてご覧なさいよ。ほれ」
「まあ、構いませんけど、…失敗したら、俺の分まで働いて下さいね」
「吃驚するくらい信用してねぇな?」
 疑わし気な視線はすぐさま諦めに変わり、短く息を吐きながら赤葦が真っ直ぐに鏡を見た。黒尾が遣り易い様に、顎を引いて。そうして眠た気な双眸がじっと見守る中、上機嫌に鼻歌でも歌い出しそうな黒尾の、大きな手がワックスを手に取り赤葦の髪に馴染ませてゆく。

「こんなもんか」
 ワックスでべたつく手をぶらりと浮かせて、出来た、と申告する黒尾の声に為すがままになっていた赤葦の視線が、じぃ、と鏡を食い入る様に見詰めた。目蓋にかかっていた前髪は横分けにしてサイドへ流しているので、白い額が露になっている。癖の有る髪質も手伝って、トップにボリュームが出ているが、黒尾のようにつんつんと立ってはいない。まじまじと見聞していた赤葦は、振り返って黒尾の顔、ではなくて、若干上へと視線をずらして首を傾げた。
「なんで自分の寝癖は直らないんでしょうね」
「うるさいよ」
 余計なお世話だっつの。大仰に顔を顰めてみせれば、くつ、と喉を鳴らして赤葦が笑う。スツールから立ち上がると、助かりましたと、会釈をして赤葦の手がワックスの容器を取り上げる。片付けるのかと思いきや、ワックスを指先で掬い、両手で伸ばしながら黒尾の前に立つ。
「折角ですから、黒尾さんも髪、弄りましょう。飲食業でその前髪はアウトです」
「はあ?いいよ、別に。つーかそんな簡単に直りゃしねえし」
「駄目です」
 有無を言わさずきっぱりと却下されて、黒尾は眉尻を少しだけ下げた。スタイリング剤のべたつく感触はあまり好む所では無いが、黒尾は渋々首を前に出して少しでも赤葦が遣り易い様にと俯いた。のらりくらりと躱して逃げるには、アウェーすぎる。赤葦の指が髪を掻き上げてワックスを馴染ませてゆく感触に目を細めながら、赤葦の髪からふわふわと漂う青林檎の匂いが、自分の髪からもしているのに気付いて、黒尾の唇が緩んだが、俯いている所為で赤葦は気付かない。これ本当に寝癖なんですか、と手子摺る赤葦の声に、緩んだ唇は堪えきれず、笑い声を響かせた。


 しまったな、と。心底思う。
「お待たせしました。マンデリンをご注文のお客様、」
 通りが良い訳では無いが、穏やかで柔らかい声。白い陶器のカップを二脚乗せたトレーを危う気なく持ち、音も立てずにソーサーをテーブルへと置く、その手際の良さ、では無く、その腕の持ち主の顔をうっとりと見詰める客の姿を、離れた所で目撃してしまった黒尾は空になったカップや皿を片付け、テーブルを拭き上げながらまんじりともせずに口端を歪めた。女性客の視線にも、黒尾の視線にも気付かない赤葦は、注文の品をテーブルへ全て揃えれば、ごゆっくり、と一礼してテーブルを離れて行く。

 髪が伸びて来たというので、邪魔にならない様にスタイリングしたのは黒尾だ。面白がっていたのもあるし、前髪を横に流すだけでも雰囲気の変わった赤葦に満足したのも黒尾だ。額と眉が隠れているというのに、いつもより顔立ちの印象が強くなる赤葦に丁度持っていた素通しの眼鏡を掛けさせて、これで完璧だと笑った数分前の自分が恨めしい。
「赤葦さあ」
 カウンターへ戻って来た赤葦へ声を掛けると、すぐに振り向いたが暫く黙り込んだ赤葦に、黒尾の眉が跳ねる。上向く視線に、髪を見ているのだとすぐに気付けどそれはお互い様だ。何せ見慣れない。
「黒尾さんて、前髪上げると別人みたいですね」
「うん。俺も今同じ事言おうと思ってたとこ」
 赤葦が弄った髪は、結局元々の髪質なのか、それとも頑固過ぎる癖に押し負けたのか、毛先が若干落ち着いたくらいで余り代わり映えもせずに終わる筈だった。そうならなかったのは、ワックスの青林檎にも似た匂いがする黒尾の髪を弄るのを止め、ワックスが置かれていた棚から見付けたワイヤーカチューシャを手に取ると、有無を言わせずにそれで前髪を一纏めに後ろへ流す強硬手段を取ったからだ。開けた視界の広さに目を瞬かせた黒尾の顔を、まじまじと凝視した赤葦は自分でやっておきながら笑えるくらいに吃驚していた。そうしてこう言い放ったのだ。黒尾さんてそんな顔してたんですね。と。
「好奇心に殺されそうだわ、俺」
「言っておきますけど、先に手を出したのは黒尾さんですよ」
「手を出したって、何それ。なんかやらしいね」
「仕事して下さい」
 洗い場から返って来たカップやソーサーの水気を拭い、シルバーを磨いて仕舞いながら軽口を叩く黒尾に、赤葦は容赦が無い。働きますよバイトですから、とへらりと笑う黒尾が磨いた、綺麗に並べたシルバーが曇り無く練り硝子のランプに照らされて淡く光るのを見て取り、赤葦が目を細めて笑う。黒尾さん、と開いた唇は、けれどホールからの呼び声に途切れてしまった。只今伺いますと、引き留める間もなく赤葦の視線は反れてしまう。
「ほんと、やらしくなっちゃってねー…」
 目鼻立ちの整った男だとは思っていた。眠た気にも見える重い目蓋や眉は前髪が短い頃にだって露になっていたし、額だって見えていたというのに、それが半分ほど隠れているだけでどうしてこうも雰囲気が変わるのか。見慣れぬというだけでなく、つい目が追いかけてしまって全く集中出来やしない。陶器や硝子の食器が多い中で、未だ一つも割っていないのが奇跡の様だ。
「お。…なあ、ちょっと」
 何かを壊して給料天引きは御免被りたいし、赤葦の刺さる様な視線を想像するだけでも居たたまれない。さてどうしたものかと悩む黒尾は、キッチンから丁度出て来たバイトの少女をひらひらと手招きした。

「すみませんが、生憎と写真は苦手で」
 苦手っていうかオマエもう結構隠し撮りされてるよ?
「申し訳無いんですがそれはちょっと」
 そんな言い方で引下がるなら声かけてないだろ。
 中々戻って来ないと思えば、客に掴まっていた赤葦はのらりくらりと体の良い断り方だが頑として首を縦には振ろうとせずに攻防戦を繰り広げていた。客席に座る、2人組の女性客の手にはスマホが握られ、熱っぽい視線に何を頼まれ、断っていたのかを予想するのは容易い。特に足音を潜めもせずにいたが、背後から歩み寄った黒尾が赤葦の肩に腕を乗せるように凭れ掛かって、其処でようやく気付いた様に驚いたような目がこちらを振り返った。間近で見ても、嗚呼、全く見慣れやしない。
「すみませんねお客様。ちょっとコイツ、お借りします」
 にっこり、女性には愛想の良いと言われ、男共からは胡散臭いと評される笑顔を浮かべてばっさりと横槍を入れると、戸惑う様な反応に黒尾は目を細めた。
「何かありましたら、また呼んで下さい。ね。……赤葦、キッチンで呼んでたぞ」
 赤葦の腰裏に手を回し、はいはい行った行ったと身体を押し遣りながら、ごゆっくりどうぞ、と駄目押しの様に会釈をすると、それに合わせる様に赤葦も小さく頭を下げた。最初は躊躇う様な足取りも、数歩歩けば押す必要も無くなって黒尾の手が弛緩し離れる。
「黒尾さん、」
「この間の借りはこれでチャラって事で」
「……よく覚えてますね、そんな事。呼ばれてるって言ってた、あれは」
「うん。嘘だよ」
「全く」
 お客様相手に何やってるんですか。呆れたような声に喉を鳴らして、半分だけだと嘯いた。
「呼んでるのは、俺」
「どうかしましたか」
 キッチンへの入り口、その脇にある物置スペースに赤葦を引っ張り込んだ黒尾は、徐に手を伸ばすとくしゃくしゃと掻き混ぜる様に赤葦の頭を撫でた。何事かと微かに跳ねた赤葦の肩を無視して、指を立てて手櫛で髪を梳けば、セットした前髪がぐずぐずに解れて青林檎の匂いが強く漂う。サロンのポケットから取り出したピンを銜えてほつれた前髪を掻き上げ、一纏めにするとくるりと捻って後ろへ流せば、ウェイトレスの少女から聞いた、確かポンパドールという纏め方だ。
「やっぱこっちの方がいいよ、赤葦」
 見慣れた、目元の露な様相の見慣れた安心感に黒尾の声が柔い。自分でセットして、それを崩す黒尾の手にゆっくりと双眸を瞬かせた後、赤葦が、ふ、と吐き出す息混じりに小さく笑った。
「本当に気紛れで、」
 困ります。表情の変化は微かでも、声が笑っていては、とても困っている様には見えやしない。

赤葦珈琲店 独占欲

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