眼鏡は男を三分上げるらしい。
 それとは別に、伊達眼鏡をかけているのは仮面を被るのと同じで何かを隠すためだとも言うそうだ。果たしてそれがどこまであの男に当て嵌まるのか、赤葦には分からない。
 修理が終わった、とメールが届いたのは昼休み。素っ気ない文面を一読してから、部活の後受け取りに行きます、とこれまた味気のない返信をしてから赤葦はそっと溜め息を零した。蝶番の折れてしまった眼鏡を修理に出している間、中々不便な生活をしていたが、それも今日で終わりだと思えば大変喜ばしい。が。眼鏡が壊れた原因である、黒尾が用意した代わりのフレームを仕舞っている、黒いケースを見下ろしていた赤葦は、呼ぶ声に顔を上げて、考える事を止めた。

「おー。いらっしゃい」
 蔦が絡んだ意匠の、格子状になったシャッターが半分程閉まっており、扉のノブの所にもクローズのプレートが下がっているが、気にせずに重たい両開きの扉を押し開くと店内の掃除をしていた黒尾と目があった。薄いグレーの、横長なセルフレームの眼鏡をかけた黒尾は、普段家業を手伝うときはきちんとした格好をしている事が多いと言うのに、今日は何故か音駒の赤いジャージを着たままで、一番見慣れている筈が覚える違和感に赤葦は無言のまま扉を閉めて、会釈だけを返した。モップの柄を支えに、両手を重ねて顎を乗せているのが様になり過ぎていて妙に癪だ。
「遅い時間にすみません。メール、有り難う御座居ました」
「いいよ。壊したの俺だし。それに無いと困るだろ」
「代わりを用意してもらったんで、それほどは。でも、助かります」
 モップ片付けて来るから座ってて、と勧められ、荷物のたっぷりつまった鞄を置いてスツールに腰を下ろす赤葦の鼻先に、馴染みの有る匂いが掠める。珈琲の、少しだけ苦いような匂いだ。
「黒尾さん、」
「んー?あ、赤葦さあ、何飲む?緑茶か焙じ茶。ホットな」
「珈琲は」
「お前相手にそりゃねえわ。俺ぁ小心者なのよ?」
 片眉を吊り上げて嘯いた黒尾が、鼻先をすんと鳴らしてから思い至った様にああ、と小さく呟いた。赤葦がただよう残り香に気付いたのだと知れば、ほんの少しだけ笑みの種類が変わる。
「鼻が利くね。でも駄目」
「気にし過ぎですよ。……焙じ茶を下さい」
 畏まりました、とにやつく黒尾が戻って来るまでに、赤葦は鞄の中に仕舞っていたケースを取り出してカウンターに置くと、する事も無くぼんやりと黒尾の背中を眺めた。赤いジャージ姿は見付けるのも簡単で、流れる湯気と鼻歌の軽妙さにふわりと欠伸を噛殺した。部活後の疲れた身体はどうにも気怠い。
「お待たせ。何、眠いの」
「いえ。長閑だなあ、と」
「眠いんだな」
 赤葦の前に、茶托と小振りな湯呑みを置いて黒尾が漸く腰を落ち着ける。カウンターの下の引き出しの中から、小さな伝票の張られたケースを出してそれも並べる。修理に出していた、赤葦のフレームが入っているのだろう。白地に山雀と南天の描かれた湯呑みの、香ばしい焙じ茶の匂いに重い目蓋を瞬かせ赤葦が手を伸ばす向かいで、黒尾が先に湯呑みを持上げて飲もうとしたが、眉を顰めて腕を下げる。
「……曇ってますね」
 湯気で白く霞んだレンズが、余りにも見事な曇り方で赤葦は焙じ茶を飲むのも一瞬忘れて凝視する。成る程、確かにこれは中々面倒そうだ。ラーメンを食べるときだとか。吹き出す様に息だけで笑う赤葦が、何食わぬ顔で焙じ茶を飲むのをぬるい眼差しで見遣った黒尾は、徐に眼鏡を外すとつるを畳んでTシャツの襟首に引っ掻け、湯気を吹き冷まし焙じ茶を飲み始める。
「シャツ、伸びますよ」
「赤葦が笑うからだろ」
「今度一緒にラーメン食べに行きましょうか」
「コンタクト禁止ならいーよ」
「拗ねないで下さいよ」
 コンタクトが使えないとなると、赤葦に残されたのは眼鏡だけだ。それでは湯気に曇って渋い顔をするのは目に見えていて、自分から言い出したと言うのにあっさりと降参を認めて、首を竦めると、黒尾もそれ以上は蒸し返したりせずに湯呑みを置いて、修理から帰って来たフレームをケースから取り出して、ガラス張りのカウンターへ置いてみせた。開いたつるの先、蝶番は目立つ跡も無く綺麗に溶接されていて、汚れ一つなく綺麗に磨かれていた。
「修理した方が綺麗になってませんか」
「そりゃお前、俺が磨いたからだろ。特別サービス」
「壊して直して磨いてで、大変ですね、黒尾さん」
「…赤葦のそゆとこ、結構好きよ」
「ありがとうございます」
 焙じ茶が腹の内側をあたためてくれるのに、ほっと息を吐きながら素知らぬ顔して聞き流す。好きだと、軽々しく吐き出す黒尾の声に、まともに付き合っていてはきりがない。湯呑みを置いて、借りていたフレームを返し、手入れの行き届いた自分の眼鏡を仕舞いながら、代金を支払おうとするとやんわり断られてしまった。修理代金の相場も分からず、眉をうっそりと潜めて、けれど押し切る黒尾の有無を言わせぬ姿勢に数分と保たず、甘える事にした赤葦が焙じ茶を堪能していると、黒尾は行儀悪く頬杖をつきながら口角を釣り上げた。笑う唇が、三日月のようだ。
「あんまり外で眼鏡使うなよ。眼鏡かけてるとモテそうでむかつく」
「はあ。まあ、三割増しっていいますしね」
「赤葦の場合は、別のが三割増しだからなあ」
「別の、って。どれですか」
「んん、色気?」
「…眼鏡をしていないのに、未だ曇ってるんですか」
「曇ってるとしたら、お前の所為だよ」
 理知的なまなこなど持ち合わせておりませんと、黒尾は笑う。
 眼鏡を掛けると、三分上がる。それが自分にも当て嵌まるのかと、他人事のように黒尾の言葉を聞き流しながら、はた、と赤葦は気付いてしまった。眼鏡をしていない今の黒尾は、隠す気が無いのでは無いか。常の様に、表面を装う人当たりの良さや甘言も、形を潜めているのではと、其処まで考えて否やと、渋く顔を顰める。この男が盲目的であろうと、二枚舌であることに変わりは無い。

黒尾眼鏡店 色艶と盲目

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