帰宅してすぐ、バスルームへの扉が開いているのに気付いた。鼻先に、お湯の匂い。靴を脱ぎ、上着の袖から腕を抜きながらリビングへ向かうと、明かりの点いたままの部屋は雑然と散らかっていた。テーブルの上に開いたままのノートパソコンと、その脇に積み上げられた学術書、クリップで留められた紙束。床の上に落ちていた、走り書きされている紙切れを拾ってみれば裏側には、細かな英文が印刷されていて所々にマーカーで線が引かれている。足の踏み場も無い散らかり様ならば有無を言わさず片付けているが、その片付け方は整理整頓、という意味では無くブルトーザーのように部屋の隅へと一纏めにするだけなので大変不評なのだが、今回はどうやら手を出すまでも無さそうだと、赤葦は畳んだ上着をソファの背凭れに引っ掛けて鞄を置いた。
 夏が終わり、秋になり、気を抜いていれば冬になる。日暮れの肌寒さに、何か温かい飲み物でもと思って狭いキッチンに向かい、どうせだから二人分、珈琲かそれとも何かと考えながらケトルに水を入れて、五徳の上に乗せそのまま暫く濡れたケトルの表面を眺めた。眺めて、火を点けないまま踵を返して赤葦はリビングに戻る。見渡す、中途半端に散らかったソファの周り。ノートパソコン、平積みにされた本、紙束、走り書きのメモ用紙。煙草と灰皿が、どこにもない。

「入りますよ、黒尾さん」
 半端に開いていた扉の前で一声かけてから開くと、浴室へ続くスライド式のドアは開きっぱなしになっていて、換気扇だけでは流しきれない湯気に床が湿気っていた。湯船につかり浴槽の縁に頬杖をついている黒尾の姿が丸見えだ。赤葦に気付いた黒尾が、返事の代わりにふう、と吐き出した煙草の煙が湯気に混ざる。
「おかえりー」
「ただいま戻りました。風呂場で煙草って、湿気ったりしないんですか」
「気にするとこ、そこなんだ?」
 くつくつと喉を鳴らしながら、頬杖を崩して腕を伸ばすと、タイルの上に置いていた銀色の灰皿へ長くなっていた灰を落とす黒尾が、未だ上がる素振りを見せないのに溜め息を零すと、バスマットを跨ぎ越えて歩み寄る。濡れたタイルはすっかり冷たくなっており、一体どれだけ長湯をしているのかと眉を潜めながら、膝を折り、しゃがんだ赤葦は、右手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを黒尾の首元へ、ぴたりとくっつけた。冷蔵庫から出したばかりのその冷たさに、驚きもせず心地良さそうに目を細める姿はどことなく眠そうだ。
「リビングのあれ、終わりそうですか」
「んー?んン、もうちょい。かな」
 湯気と紫煙にけぶる薄らと隈の浮いた下瞼をたっぷりと見詰めた赤葦は、黒尾の手から吸い止しの煙草を奪い取るとそれを銜えた。押し付けていたペットボトルを浴槽の縁に置き直して、煙草の箱とライターをデニムのポケットへ突っ込んでタイルに直置きされていた灰皿を拾い上げると、それを咎める様に黒尾の目が細く眇められるが、制止する声は無い。ほたりと灰皿の底から伝って落ちる、すっかり冷めた水滴が足の甲を濡らす。
「こんな所で煮詰まっていたら、脱水症状で倒れますよ」
「もうちょっと優しく言って」
 注文の多い男だ。銜えた煙草を、一度ひこりと揺らし赤葦は深く紫煙を吸い込んだ。唇から抜き取り、灰皿に吸い殻を押し付けて消しながら肺に溜めた煙を、尖らせた唇からふ、と黒尾の顔へと、吹き掛ける。湯気と混ざらない、煙草の煙がぶわりと渦を巻く。
「口寂しくなる前に、上がって下さいね」
 口寂しくなるのは一体どちらか、省いておきながら子供の我が侭を甘やかす様な声で、そう言い残すと赤葦は踵を返して脱衣所へ戻った。背後で立つ水音が、立ち上がって跳ねる水滴の落ちる音なのか、それとも、湯船に沈んで波打つ音なのか。振り返らずとも、答えなんてきっと、すぐに分かる。

煙が目にしみる

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