部屋を掃除していたら覚えの無い紙袋がクローゼットの奥から出て来て、黒尾は首を傾げた。見た瞬間、覚えていないというのに何となく嫌な予感がして、けれどそれを元の場所へ押し戻すのはもっと嫌な予感がして、結局恐る恐る覗き込んだ黒尾は中を見た途端そのまま固まった。

 部屋を出てリビングに向かうと、ソファに座っている赤葦の元へと歩み寄るが、その途中で耳元に押し当てられている携帯に気付き、黒尾は足音を潜めた。
「それだったら、少し遠出にはなりますけど条件に当て嵌まりそうな店がありますよ」
 素足でひたりひたりと、猫の様にフローリングを突っ切りラグの上を踏み越え、赤葦の足下へと辿り着く頃には、すっかりこちらに気付いていた赤葦が、電話口の相手と会話を続けながら視線だけを送って来た。赤葦の膝の上に置かれたハードカバーの本は栞を挟むでも無く、閉じるでもなく、読みかけそのままで、メモらしきものも何もないのを見て、電話口の相手は急を要する様な用件では無さそうだと判断して、黒尾は赤葦の裸足の足を捕まえて持上げた。
「後でアドレス、送っておきます。研究室の方、が、……!」
 ぐるん、と引っ張られた赤葦の背中が背凭れの上を滑って、ソファの上に仰向けに転がる。転がるついでに、肘置に頭をぶつける鈍い音が響く。脇に挟んで逃げられない様にしながら、ソファに膝をついて乗り上げる様に座った黒尾が、声も無くゴメンネ、と片手を拝む様に持上げるのを、上目に睨む赤葦は声を上擦らせはしたものの、そつなく電話口の相手と会話を続けようとする。
「いえ、すみません。手癖の悪い猫が悪戯をしていて」
 手癖の悪い猫ときたか。だが確かに、これから黒尾がやろうとしているのは決して、手癖が良いと誉められる様な事でないのは確かなので、黒尾は赤葦にだけ聞こえる位の、微かな声で猫の様に鳴いてみせた。にゃあん、と、鳴声を真似る低い声に、増々赤葦の視線が冷え冷えと温度を下げる。呆れをたっぷりと含んだその目が、黒尾だけをじっと見遣って来るのを満足そうに見下ろして、黒尾はポケットの中の小瓶を指先に摘んで赤葦の目の前で振ってみせた。小さな、マニキュアの瓶。学祭で、代々受け継がれているらしい伝統のオカマバーに駆り出された際、塗りたくられた色は名字にあわせたのか、赤でもピンクでもなく黒だった。ミニスカニーハイチャイナドレス、という地獄の様な衣装諸共、二度と日の目を見る事は有るまいと押し込んでいた紙袋の中にしっかりと、紛れ込んでいたそれを見付けた瞬間、思い付きをそのまま行動に移すのに躊躇したのは、コンマ数秒きり。ほぼ躊躇いもせぬ思い付きの、被害者である赤葦はマニキュアのボトルを見た瞬間、表情こそ変えぬまま黒尾に掴まれていた足の踵で、黒尾の脇腹を蹴飛ばした。割と容赦のないその一発に、黒尾の笑みが増々深くなる。
「すみません。ちょっと。掛け直しても、」
 手が塞がっていては不利だと、状況を的確に判断するのは流石だが、もうすでに遅い。掴んでいた足の、膝裏を掴んで持上げると膝頭の上、太腿の内側に顔を寄せて、口を大きく開く。かちん、と一度、歯列を鳴らして、黒尾は笑った。
「電話切ったら、赤葦が動けないようにしてから塗るけど。このソファ、もう使えないくらいぐちゃぐちゃになるんじゃない?」
 生成り色のソファに、黒いマニキュアはさぞや目立つだろう。それだけでなく、丸ごと洗濯なんて出来ようもないのだから、汚れる様な事をすれば処分するしかなかろうと、通話を打ち切ろうとする赤葦に、黒尾は意地の悪い釘を刺した。両手が自由になれば、それこそ爪を塗るどころの話ではなくなってしまう。
「……いえ、大丈夫です。このままで」
 携帯を一度遠ざけて、肺が空になるくらい深い深い溜め息を零して、赤葦はまた耳元へ携帯を押し当て話の先を促した。太腿に一度口付けて、捕まえていた膝裏から手を離すと恨みがましい視線と一緒に、赤葦の爪先が黒尾の腹を蹴る。加減されていて痛くもなんともないその抵抗を最後に大人しくなった赤葦の、踝の浮き出た足首を捕まえて自分の腿の上に置き、黒尾はボトルの蓋を開けた。

無題

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