赤葦の手先は器用だ。丁寧に豆を挽き、ドリッパーとカップを温め、均一に湯を落としてドリップした珈琲はすっかりと黒尾の舌を肥やした。缶珈琲が飲めなくなったのは九割方、赤葦の所為だと揶揄混じりに言ってみたら、責任取りましょうか、としらりと言って退けるものだから性質が悪い。その食えない器用な赤葦に、トレーを使わずにソーサーに乗せたカップを運ぶコツを聞いていた黒尾は、数度目の挑戦の末、どうにか片手で二脚持つ事が出来る様になった。なった、が。
「これこのままフロア歩くって無理だろ」
「慣れもあると思いますよ」
 無理無理落とすそれか零す、と引き攣った声を上げる黒尾の左手に乗ったカップが、カチンと揺れて高い音を立てる。カップの中には水が半分ほど入っているが既に何度かバランスを崩し掛けて揺らぎ波打ってソーサーを濡らしているのがいたたまれない。ぷるぷると手首の震える黒尾の向かいで、微動だにせず三脚、手の平と手首も使ってソーサーを乗せた赤葦のカップは八分目まで水が注がれているというのに、ちっとも零れる素振りが無い。
「というか。トレー使えばいいんじゃ」
「だってこっちの方が見た目格好いいだろ。ウェイターっぽくて」
「そんなもんですかね…」
 未だ喋る程に余裕がなく、口を開けばカタカタと陶器のぶつかる細い悲鳴の様な音が立ってしまう。落として中身をぶちまけてしまう前にと、赤葦の右手が黒尾の手からひとつ、ソーサーを取り上げてテーブルへ置いた。
「手首、疲れませんか」
「良くわかんね。へんなとこがダルい」
 バレーをするのとはまた、勝手が違う。手に持っていた一脚は自分でテーブルに下ろして、手首のストレッチをするように指先を反らしている黒尾を見て、赤葦もテーブルにソーサーとカップを置いて休もうとした、けれど、それを阻むように黒尾が少しだけ首を傾げて、赤葦の手元を覗き込んだ。
「どうかしましたか」
「や、赤葦の手首んとこ」
「?」
「これ」
 ソーサーを支える為に神経を張りつめた、左手。手の平と手首の繋ぎ目、くびれたラインの途中で張り出した尖った骨のおうとつを、黒尾の指が撫ぜる。くるり、張り出した皮膚の下の骨の形を辿るような触れ方に、カタ、と陶器の動く音が響く。零れこそしないが揺らぐカップの中の水は揺れていた。
「骨、すげえ出っ張ってんね。って、思ったんだけど」
「驚かせないで下さい」
「それだけ?」
 片眉を吊り上げて、手首から赤葦の顔を斜に見遣る黒尾の唇が笑う。嗚呼いやな笑い方だ、と赤葦が眉を潜めるのも気にせず、懲りずに伸びてきた黒尾の手から左手を逃がすが、カップを落とさぬ様に配慮していて逃げ切れる訳も無い。肘を指先に捕われて、シャツの上からつるりと撫で下りた指が、袖を捲った腕の剥き出しの皮膚をくすぐり、手首へと辿り着く間、唇の内側を浅く噛んで赤葦は堪える様に息を飲んだ。くすぐったい、のと、それとは別に、もっと。何か。
「流石。ちっとも零さないのな」
 ちら、とカップを見遣り、表面が細波のように揺れているものの零れる程では無い絶妙なバランスに声が笑っている。
「割ったら請求書は黒尾さん宛にしておきますね」
「え、何それ酷い」
「じゃあ、」
「いいよ」
 あっさりと前言を翻し、手首の張り出した骨を指腹で撫でていた黒尾の双眸が弧を描く様に細く眇められた。猫が笑っているようなその顔に、込み上げる嫌な予感はこんな時ばかり的中する。
 手首の骨を撫でる黒尾の指の、触れた場所が熱い。尾を引く様な体温が、這う様に手の甲へとなめらかにすべり、指の付け根をゆっくりと撫でられ赤葦の指先が震えた。カップの中の水が跳ねて、ソーサーと指を濡らす。これが珈琲ならばきっと、火傷していた。
「これも弁償する?」
 赤葦の手首の上に乗っていたソーサーを取り上げて、ちょっかいを出していた指を黒尾が舐める。零れた水は黒尾の指も濡らしていたらしいが、今はもう、それぐらいじゃ体温が下がるとは思えず赤葦は苦々しく、温い水で濡れた指と水浸しのソーサーを見下ろした。

つなぎめの骨

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