あの髪が黒より黒く染まるのを知っている。

 烏の濡れ羽色、とはよく言ったもので、彼の髪は濡れると増々、艶光る。緩く波打つ毛先が束になり、一本一本が細い髪は絹糸を撚ったように真っ直ぐになる。きりきりと結い上げればさぞや見映えするだろうに、残念ながらほぼ毎日、無造作に頭の天辺で括られているばかりだ。勿体無い。そう思っても、舌の上に乗る事の無い言葉は澱のように胸の中に沈んで、静かに静かに、嵩を増していく。

 ああ、勿体無い。

「風邪、引いちゃいますよ」
 背後から声を掛けた途端、敷き詰められた石の上に跳ねる水の音が途切れた。日が落ちれば肌寒く、地下から組上げる水も体温を奪う程冷たいのに、井戸端でぐっしょりと濡れそぼった彼はそんな事には頓着しないらしい。ざらざらと砂利を踏み締め、井戸の軒下へ近付いていく。慈雨の季節も近く、湿気混じりの空気が彼の周辺だけさらに濃くて、吸い込む息が自然と緩む。土の匂い、水の匂い、それから。
「落とせるだけ汚れを落としておかないと、長屋にも上がれないからな」
「そりゃそうですけどー。でも、」
「タカ丸さん」
 話の流れを断ち切る様に、静かに静かに名前を呼ばれて知らずタカ丸の背筋が伸びる。兵助は視線を己の四肢へ向け、じろじろと暗がりの中で見分する様に見詰めてから隣に立つ、年上の後輩をちらりと見遣った。濡れた身体とは真逆に、大きな双眸はひりつくように乾いていた。その視線の、鋭くは無いが有無を言わさぬ無言の圧力にタカ丸の眉尻が情けなく下がる。

「……土井先生から、言伝を預かって来たんです」
「土井先生?言伝って、どんな」
「お湯、使った方がいいですよー?」
「聞いてから風呂に行くって」
「火急の用ではありませんから。僕、待ってますよ。久々知先輩が戻って来るの」
 ね、と笑うタカ丸の顔を、それこそ穴があくほど凝視していた兵助の眉根がぎゅう、と寄る。のらりくらり、押しても手応え無く躱される問答に飽きたのか諦めたのか、吐き出す息に諦観を滲ませ視線を反らす兵助の首元へ、タカ丸の手がついと伸びる。顔の横、頬にはりつく髪を掬う様に指先でかき上げ、そしてこびりついていた汚れを指の腹で擦る。強くなる匂いに兵助がじろりと睨んでくるのに眉尻を下げて笑って、髪から手が離れた。
「――……仕方が無い。部屋で待っててくれ、すぐ戻るから」
「お構いなくー。どうぞごゆっくり」
「す ぐ 戻 る か ら」
 区切る様に、やたら滑舌よく同じ台詞を繰り返されて首を竦めたタカ丸がいってらっしゃい、とばかり手を振ると、渋々といった表情を隠しもせずに軒下から出て歩き出す兵助の、真っ直ぐに伸びた背中を見送っていたタカ丸は、その背中が夜闇に紛れ見えなくなると己の五指を見下ろした。髪結いらしく胼胝のある一癖も二癖もある指先に、翳る視界でもはっきりと分かる鮮明な紅。

「ああ、勿体無いなあ。本当に、」
 呟く声は誰の元にも届かぬまま、水の匂いが薄れていく夜気を震わせ、指先に微かな疼きを残して消えた。

後ろ髪(切れぬ未練)

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