裏々山に見事な藤の群生地がある、という事を知る者は少ない。何故なら裏々山の中でも厳しく、複雑に入り組んだ谷の奥へ態々踏み込もうなどと思うのは余程の物好きだからである。一握りの物好きと、不可抗力で迷い込んだ不運な者だけが知るその名所は、今年も淡い紫色の花で咲き溢れていた。桜とはまた違う、蔓植物独特のしなやかさで幾つもの花房を垂らす藤は八分咲きといったところか。風が吹く度、ひらり、ひらりと、花弁が背の伸びた野草の上へと舞い落ちる。

「それで、」
 重々しく口を開いた兵助の後ろで勘右衛門が、水に浮くような軽い声で酔狂だなあ、と笑った。
「お前等、こんな所で何やってんの」
「琵琶の練習だ」
「八左ヱ門が補習になっちゃってね、その練習をしているのさ」
「うん、そんな事だろうと思った。そうではなくて、三郎」
「うん?」
「なんで女装してるんだ」
 ミス・マイタケ城嬢によく似た面差しの、黒目がちな双眸をゆっくりと瞬かせて三郎は己の格好を見下ろし、首を傾げた。所作や佇まいは女性らしい優美なものだが、纏う空気が愉快犯めいている。
「なんとなく?」
「三郎の遣る事為す事に意味を求めてどうする、兵助。演習で疲れてそんな事も忘れたのか?」
「とりあえず勘右衛門は私に謝れ」
 ぎゃあぎゃあと喧しく(主に三郎が)騒ぐのを横目に、兵助が背負った細長い包みに気付いた雷蔵が八左ヱ門の横合いからひょこりと顔を出す。八左ヱ門へ琵琶を教えていたらしく、その手には使い込まれた撥と春の日差しにつやつやと光る琵琶を抱えていた。
「い組は弓の演習?」
「ああ」
「という事は、弓弦も矢も今背負ってる?」
「一通りな」
「なら、丁度いい。ね、三郎」
「大体、お前は私に対しての扱いが他と比べて――!」
「………、三郎」
「はいぃ!」
 幼子を嗜める様なそんな声に、びくりと肩を揺らした三郎はそれに似合いの裏返った声で返事をするなり、ぐるりと首を勢いよく巡らせた。その後ろ髪が馬の尻尾のように跳ねて勘右衛門の横っ面を引っ叩く瞬間を、まんまと目撃した八左ヱ門が堪えきれなかった様に喉を鳴らして笑う。
「八左ヱ門、習うより慣れろ」
 じろり、と横目に睨む三郎の剣呑な視線にたじろいだのも束の間、意図が分からず八左ヱ門の眉間に深い皺が寄る。
「悪かったな、理解力が足りなくてな!……で?つまり、何するんだ」
「頃は二月十八日の鳥の刻ばかりのことなるに、折節北風激しくて、磯打つ波も高かりけり」
「ああ、成る程。なら傾城が三郎だな。弓は兵助が持っているし、私は唄にしよう」
 謡う三郎の声に、合点がいったとばかり手の平を打ち合わせた勘右衛門が、いそいそと雷蔵の隣へ胡座をかいて座るのを眺めていた兵助は、風に揺れる藤の花を見上げて零れる様な息を吐いた。花見に来た筈が、花を見るどころでは無くなってしまった。突飛な三郎の思いつきに付き合うのは概ね骨が折れる事ばかりだが、傍観するよりも巻き込まれてしまった方が楽しいというのも、長い付き合いで兵助は知っているのだ。

 顔を突き合わせ、音合わせをしている雷蔵と八左ヱ門に合いの手を入れる勘右衛門、藤の根元へ距離を測る様に移動して、懐から取り出した扇を開いた三郎の手首が典雅な所作でしなる。扇が生み出した微かな風は、藤の花弁をふわりと揺らした。

「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、―――」

春の野に弓鳴りが響く。

ひらひら、花唄

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