卒業後、善法寺伊作は忍にはならなかった。六年間務め上げた保健委員での経験を活かし町医者にでもなったのだろうと思っていた、と苦々しい顔で漏らしたのは文次郎だっただろうか。たまたま立ち寄った村の近くで戦が始まり、足止めを食らっているならば、と負傷した兵士や武士の手当に戦場へ足を運んでいたら偶然出会したのは覚えている。というよりも、卒業して十年余り、野の獣の習性めいた手癖は最早どうにもならず、苦言を呈する同級の友もいなければ歯止めになるものは何も無い。ある時は足軽に変装して潜り込んでいる後輩、ある時は夜闇の静寂を破らず交わされる聞き覚えのある矢羽音、ある時は忍務の真っ直中であろう友と町中でばったりと出会した事もあるくらいなので、不運、不運と言われている伊作だが、人との縁には恵まれているらしい。卒業後も変わりない見知った顔を見付ける度に、花が咲きこぼれる様な笑みを浮かべる伊作に対する相手の反応は様々だったけれど、結局、こちらも変わらぬと知れば懐かしさの滲む顔で笑う。勝手に治療し、費用を請求するでも無く立ち去ってばかりなのでその日暮らしのような有様だが、これはこれで己らしいじゃぁないか、と伊作は滅法今の生活を気に入っていた。

 そうした浮き草のような暮らしを始めて何巡目かの晩夏。残暑の厳しい昼日中は茹だる様に暑く、立ち寄った峠の茶屋で甘味でも、と思ったのがそもそもの切っ掛けだった。甘いみたらし団子を頬張りながら、並ぶ長椅子の隣に座った旅装束の男達の会話が耳に飛び込んで来る。この峠を下った先、大きな川の麓の村で医者を探している。らしい。なぜ噂に成る程躍起に医者を捜しているのやら、と話半分で耳を峙てていたが、村の入り口が血でぬかるむ程、その村は戦に駆り出され、軽度から重度の怪我を負った男衆で溢れている。その一言に、伊作の次の行き先は呆気無く決まった。

 日暮れまでに村へ着きそうもないな、と思った伊作は、街道を外れ脇道へと入った。つけられている。ような気がする。忍術学園で学んだ、他者の命を食い潰す術は裏を返せば己を守る為にも使える。い組やろ組に比べれば見劣りはするだろうけれど、伊達に学園一二を争う武闘派の友とつるんでいない。学園で身に叩き込んだ技術や、彼から学んだ経験は得難いものだ。お陰で今もこうして息をし、二本の足で立って居られる。尾行者の力量が己よりも遥か上ではないように祈りながら、誘う様に緑の濃い森へと一人、歩みを進める。完全に街道が見えなくなった頃、草葉の陰で密やかに鳴いていた虫の声が途絶えた。気配は、未だ掴めぬほどに稀薄で何処にいるか、何人なのかも分からぬが、伊作は歩みを止めた。いつでも動ける様、身体の力を抜いて膝をほんの少し、柔らかく撓めておく。ひとつ、ふたつ、と心中で数を数え、十になる前に背後で衣擦れの音がした。着地音はおろか、歩み寄る気配すら殺し切った癖に、やけに手緩い。油断しているのか、それとも忍ぶに値しない程の格差があるのか。目紛しく考えながら、振り返らずに伊作は口を開く。

「どなたか存じませんが、私に何か御用でもあるのでしょうか」
「ただの曲者です〜。貴方にお願いがあって着けていました」

 少しばかり低くなったが、覚えのある声。そして覚えのある台詞に、懐かしささえ覚えて伊作は振り向いた。一間ほど離れた場所に、夜色の装束を纏った歳若い男が一人立っている。薄暗い中でもはっきり分かる、青白い肌に翳りのある目元。口元の覆面を下げ、露になった色の薄い唇が綻ぶようにゆるむ。

「もしかして、…… 伏木蔵、かい?」
「ええ。お久しぶりです、伊作先輩」

 たかが十年、されど子供にとっての十年は大きい。背も伸び、しっかりとした体格に、低くなった声。面差しに幼かった頃の面影を残してはいるが、すっかり青年らしく成長した後輩の姿に驚きと喜びをないまぜにした様な顔で伊作が破顔すると、それを見て伏木蔵も仄かな笑みを浮かべた。笑った顔は記憶の中とあまり変わっていない、と微笑ましい気持ちで、久方ぶりに顔を見れて嬉しい、と伝えようと開いた唇が言葉を紡ぐのを制止する様に、伏木蔵は己の唇にそっと人差し指を押し付けた。

「先輩、この先の村へは立ち寄らずに戻りませんかぁ。かつての後輩としてお願いします」
「それはまた、唐突だな。訳を聞かせてくれないか」
「すみませんがお伝え出来ないんですー」
「ならば私も聞き入れる訳にはいかないよ」
「…… 困ったなぁ。説得を聞き入れて頂けないとなれば、」

 不思議と間延びした、穏やかな声は崩れずにゆるりと動いた手が忍刀を鞘から引き抜き、静かに構える伏木蔵に隙は無い。しかし殺気もないために、どう動くのかも察し難い。全く厄介な忍びに育ったものだ、と凶器を構えた後輩を前にして感心した伊作の表情の移り変わりに、視線を反らさずに伏木蔵は微かな笑みさえ消し去った。下段に構えた切っ先は未だ動かない。

「タソガレドキ忍者隊小頭として、忍務を全うしなければなりません」

 困るでしょう?と嘆くには悲壮感の足りていない声に、十年前の学園で厄介毎の最中でも緊迫感に縁遠かった彼の言動が脳裏に蘇り、思わず伊作は笑ってしまった。まさかこんな所で、後輩と手合わせする羽目になるだなんて。

「ああ、全く。私は相変わらず不運のようだ」

 僕もです、と返した伏木蔵が構えた切っ先を跳ね上げ、地を這う様に低く駆け出した。

かくれんぼ

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